ライオンズの日程は過密過ぎますね。勝たねばならぬ消化試合なんて前代未聞です。




1998ソスN10ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 03101998

 運動会今金色の刻に入る

                           堀内 薫

しかに、運動会には金色(こんじき)という形容にふさわしい刻(とき)がある。最後の種目、たとえば花の800メートル・リレー競争の行われるあたりが、その時刻だろう。競技も最高に(金色に)盛り上がるが、その頃になると日の光りも秋特有の金色となってくる。スタート・ラインに集まってくる選手たちの影が長く尾を引きはじめる時刻だ。活気溢れるイベントの最中に、はやくも金色の秋の日ざしが夕暮れの近さを告げているわけで、華やかな気分のなかに生まれてくる一種の衰亡感は、私たちのセンチメンタリズムを心地好く刺激してやまない。まさに、金色の刻ではないか。私は鈍足だったから、運動会は嫌いだった。が、たった一度だけ、二人三脚リレーで大成功した経験がある。それは、たまたま組んだ友人が左利きだったおかげであり、鈍足でも二位以下に大差をつけることができて、このときの快走だけは忘れられない。運動会のシーズンだ。たまに見に行くと、鈍足の子のことばかりが気にかかる。考えようによっては、最後の種目がはじまる頃が、そんな子たちにとっての別の意味での最高の「金色の刻」でもあるわけだ。(清水哲男)


October 02101998

 銀色の釘はさみ抜く林檎箱

                           波多野爽波

前の句。北国から、大きな箱で林檎が送られてきた。縄をほどいた後、一本ずつていねいに釘を抜いていく。「はさみ抜く」は、金槌の片側についているヤットコを使って浮いた釘をはさみ、梃子(てこ)の原理で抜くのである。真新しい釘は、いずれも銀色だ。スパッと抜く度に、目に心地好い。クッション用に詰められた籾殻(もみがら)の間からは、つややかな林檎の肌が見えてくる。何であれ、贈り物のパッケージを開けるのは楽しいことだが、林檎箱のように時間がかかる物は格別である。その楽しさを釘の色に託したところが、新鮮で面白い。往時の家庭では釘は必需品であり、林檎箱から抜いた釘も捨てたりせず、元通りのまっすぐな形に直してから釘箱に保管した。同じ釘は何度も使用されたから、普通の家庭では新品の銀色の釘を使うことなどめったになく、したがって句の林檎箱の新しい釘には、それだけでよい気分がわいてくるというわけだ。そして、もちろん箱も残されて、物入れに使ったりした。高校時代まで、私の机と本箱は林檎箱か蜜柑箱だった。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 01101998

 十月のてのひらうすく水掬ふ

                           岸田稚魚

の冷え込みを、多くの人はどんな場面で実感するのだろうか。それは人さまざま、場面さまざまであろうけれども、この句のようなシーン、たとえば朝の洗顔時に感じる人が圧倒的に多いのではなかろうか。夏の間は無造作にジャブジャブと掬(すく)っていた水なのだが、秋が深まるにつれて、「てのひらうすく」掬うようになるのである。水に手を入れるのに、ほんのちょっとした「勇気」が必要になってくる。新暦の十月という月は、四季的に言うとそんなにきっぱりと寒くもなくて、まだ中途半端な感じではあるのだが、少しずつ来たるべき冬の気配も感じられるようになるわけでもあり、そこらあたりの微妙な雰囲気をまことに巧みにとらえた佳句だと思う。いろいろな句集や歳時記を開いてみたのだが、季語「十月」で万人を納得させるような作品は、予想どおりに少なかった。今回私の調べた範囲で、この句に対抗できる必然性を持つ句は、坂本蒼郷の「僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る」という気持ちよく、少し苦い心で労働する人の句くらいであった。「十月」をちゃんと詠むのは、相手がちゃんとしていないだけに相当に難しい。(清水哲男)




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