テ 句

October 13101998

 秋風に和服なびかぬところなし

                           島津 亮

服の国に生まれながら、一度もちゃんとした和服を着たことがない。サラリーマンをやめてからは、いわゆるスーツもほとんど着ない。年中、ジーンズで通している。服の機能性を重視するというよりも、単純に面倒臭いので、ちゃんとした服を着る気にならないだけの話だ。つまり、しゃれっ気ゼロ。そんな私だが、他人が和服やスーツをきちんと着こなしている姿は好きだ。とくに中年女性の上品な和服姿には、素朴に感動する。というわけで、この句にも素直に文句なしに感動した。なるほど、和服の袖や袂や裾は自然に風になびくのであり、着ている人の心持ちからいうと、襟元などを含めたすべての部分が「なびかぬところなし」の感じになるはずである。和服にはなびく美しさを前提にしたデザイン思想があるようで、裾模様などという発想は、その典型だろう。その点、西洋の「筒袖」(明治期の洋服の一呼称)には「なびきの美学」は感じられない。西洋は風にあらがい、この国は風に従い、風を利用して審美眼を培ってきた。すなわち、俳句はこの国に特有の「なびきの美学」の文学的表現でもある。『紅葉寺境内』所収。(清水哲男)


February 2222001

 兵舎の黒人バナナ争う春の午後

                           島津 亮

が世に連れるように、俳句も世に連れる。揚句を理解するには、戦後の疲弊した日本社会に心を移して読まなければならない。「兵舎」には「きゃんぷ」の振り仮名。春の午後に、基地の兵舎で、黒人兵たちがふざけ半分にバナナを争っている。ただそれだけの図であるが、作者はただそれだけのことに呆然としていると言うのだ。何故の呆然か。一つには、進駐してきたアメリカ兵たちが、日本の兵士たちに比べてあまりにも明るく開放的であったことへの衝撃がある。とくに黒人兵たちは目立ったこともあり、とてつもなく陽気に見えた。兵舎での食べ物の取り合いくらいは、日常茶飯事という印象だ。日本の軍隊では考えられない光景である。そして彼らのこの陽気は、同時に治外法権者の特権にも通じていると写り、敗戦国民にはまぶしいような存在だった。もう一つには、困難を極めた食糧事情の問題がある。バナナやパイナップルなどは高価で、そう簡単には庶民の口には入らなかった。それをごく普通の食べ物として、平気で取り合っている……。呆然とせざるを得ないではないか。「春の午後」は、さながら天国のような基地の兵舎の雰囲気を象徴した言葉として読める。前衛俳句の旗手として活躍した島津亮にしては大人しい句だが、あの頃を知る読者には、今でもひどく切なく響いてくるだろう。羨まず嫉まず怒らず、ただ呆然とするのみの世界が同じ地上に近接していたのだ。もう一句。「びくともせぬ馬占領都市に花火爆ぜる」。人間よりも馬のほうが、よほど性根がすわっていた。『記録』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます