October 151998
欠席の返事邯鄲を聞く会へ
田川飛旅子
邯鄲(かんたん)の鳴き声はルルルル……と、実に美しい。だから「一夜みんなで楽しもうじゃないか」ということになったりする。新聞などにも、よく案内が載っている。そんな風流趣味の催しに、作者は欠席の返事を書いたところだ。どんな理由からだろうか。折り悪しく先約があったのかもしれないし、単に面倒だったのかもしれない。そのあたりを読者の想像にゆだねているところが、句の眼目だ。句の勢いからすると、欠席の返事が逡巡の果てに書かれた感じはしない。すらりと「欠席」なのだ。さっぱりしている。年令のせいだと思うが、最近の私もいろいろな会にすらりと「欠席」が多くなった。面倒という気持ちもあるが、出席したところで何か新鮮な衝撃が待ち受けているわけじゃなし、会の成り行きが読めてしまうような気持ちがするからである。高屋窓秋に「さすらひて見知らぬ月はなかりけり」(『花の悲歌』所収)という凄い句がある。ここまでの達観はないにしても、ややこの境地に近い理由からだと思いはじめている。『邯鄲』所収。(清水哲男)
September 242000
邯鄲に美しき客あれば足る
京極杞陽
邯鄲(かんたん)の鳴き声は、ル、ル、ルと夢のように美しい。昨今、各地で邯鄲を聞く会が開かれるのも宜なるかな。句の言うように、加えて「美しき客」があり座敷が匂い立てば、何の不足もない。秋の夜の至福の時である。このときに「美しき客」とは、必ずしも美貌の女性でなくともよいだろう。肝胆相照らし、しかし、互いに礼節はわきまえる間柄の男であれば、やはり「美しき客」である。いずれにせよ、「美しき客」がなおいっそう美しいのは、やがては座敷から去ってしまう人だからだ。楽しき語らいが、夢のように消えてしまうからである。邯鄲の美しい鳴き声も、また消えてゆく。「足る」は寸刻。だから「足る」のであり、それでよい。中国に「邯鄲の夢(「邯鄲の枕」とも)」の故事があって、「邯鄲」の虫の名は、ここに発する。掲句もこの故事を、下敷きにしていると思われる。「[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)。 人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ」(『広辞苑』第五版)。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)
September 142002
邯鄲や酒断ちて知る夜の襞
正木浩一
季語は、ル・ル・ルと美しい声で鳴く秋の虫「邯鄲(かんたん)」。「邯鄲の夢」の故事から命名された。この鳴き声を人生のはかなさに引きつけた感性は、優しくも鋭い。「酒断ちて」は、大病ゆえの断酒と句集から知れる。幸か不幸か、私には断酒に追い込まれた体験はないのだが、句はよくわかる(ような気がする)。おのれの酩酊状態の逆を考えれば、さもありなんと想像できる(ような気がする)からだ。酔いは、人を感性の狭窄状態に連れてゆく。感覚的視野が狭くなり、その結果として、素面のときに見えていたり感じられていたはずのことの多くが抜け落ちてくる。よく言えば雑念が吹っ飛ぶのだし、悪く言えば状況に鈍感になる。このときに、些事に拘泥したり誇大妄想風になったりと、人により現れ方は違うけれど、根っこは同じだ。いずれにしても、日常的に自分の存在を規定している諸条件から、幻想的に抜け出てしまうのである。これが、私なりの酒の力の定義だが、この力が働かない状況に急に置かれると、掲句のように「夜の襞(諸相)」が実によく感じられるだろう。それも、日ごろ酒を飲まない人には感じられない「襞」のありようまでが……。こんなにも夜は深くて多層的で、充実していてデリケートであることを、はじめて覚えた驚き。酒を断たれた哀しみを邯鄲の鳴き声に託しつつも、作者はこの新鮮な驚きに少しく酔っている。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)
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