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1998ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21101998

 汽罐車の火夫に故郷の夜の稲架

                           大野林火

夫(かふ)は、汽罐車の罐焚きのこと。稲架は、刈り取った稲を乾燥させるための木組み(ないしは竹組み)のことだが、これを「はざ」と呼ぶのは何故だろうか。私の田舎(山口県)では、単に「いねかけ」と言っていたような記憶がある。稲城という地名があるが、この稲城も稲架のことである。ところで、この句は身延線で汽罐車を見た際のフィクションだと、林火自身が述べている。「火夫は、まだ若い。いま汽罐車はその故郷を通過している。沿線には稲架が立ち並び、その数や厚みで、今年の稔りがどうであったかはこの火夫にすぐ知られよう。そこには父母・兄弟の手掛けた稲架も交っていよう。罐焚きの石炭をくべる手に一段と力の入ったことであろう。この句、そうした空想のもとになっている」。空想にせよ、この国の産業が農業ベースから外れてきはじめた頃(1964)、生まれ育った土地を離れて働く者の哀感がよく伝わってくる。夜の汽罐車を、走らせる側からとらえた目も出色だ。『雪華』(1965)所収。(清水哲男)


October 20101998

 一本のマッチをすれば湖は霧

                           富沢赤黄男

は「うみ」と読ませる。霧の深い夜、煙草を喫うためだろうか、作者は一本のマッチをすった。手元がぼおっと明るくなる一方で、目の前に広がっている湖の霧はますます深みを帯びてくるようだ。一種、甘やかな孤独感の表出である。と、抒情的に読めばこういうことでよいと思うが、工兵将校として中国を転戦した作者の閲歴からすると、この「湖の霧」は社会的な圧力の暗喩とも取れる。なにせ1941年、太平洋戦争開戦の年の作品だからだ。手元の一灯などでは、どうにも払いのけられぬ大きな壁のようなものが、眼前に広がっていた時代……。戦後、寺山修司が(おそらくは)この句に触発されて「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と書いた。寺山さんは、日活映画の小林旭をイメージした短歌だとタネ明かしをしていたが、それはともかくとして、相当に巧みな換骨奪胎ぶりとは言えるだろう。ただし、書かれている表面的な言葉とは裏腹に、寺山修司は富沢赤黄男の抒情性のみを拡大し延長したところに注目しておく必要はある。寺山修司の世界のほうが、文句なしに甘美なのである。(清水哲男)


October 19101998

 あきぐみに陽の匂う風吹き来たる

                           金子兜太

通には「ぐみ(茱萸)」と言う地方が多いと思うが、植物名としては句のように「あきぐみ(秋茱萸)」と呼ぶのが正式だ。私の田舎ではそこここに原生しており、学校帰りに枝ごと折り取っては食べながら歩いたものだ。赤くて小さな実は甘酸っぱく、少し渋い。茱萸の実の熟れる十月の半ばともなると、山国の風は冷たさを増してくる。が、ときに恩寵のように柔らかく暖かな風が吹く日もある。この句はそんな風をとらえているが、なんという優しいまなざしであろう。実はそれも道理で、前書に「姪百世(ももよ)結婚」とあって、祝婚句なのだ。たぶん色紙に記されて贈られたであろうこの句を、新婚夫婦はどこに飾ったのだろうか。むりやりに句から教訓を引き出す(これが俳句読みのいけないところだと、李御寧が『蛙はなぜ古池に飛びこんだのか』で叱っている)必要もないけれど、恩寵のようなおだやかな風に恵まれた若い二人の生活にも、どこかに渋い味が隠されていることを、作者は言っておきたかったのかもしれない。代表作とはならないにしても、兜太の抒情的才質をうかがわせるに十分参考になる美しい作品だ。『皆之』(1986)所収。(清水哲男)




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