向井さんの本も読みましたが、マスコミ報道は気にくわない。生体実験じゃないか。




1998ソスN10ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 28101998

 信号の青つぎも青夕時雨

                           清水 崑

者の家から荻窪へ行く途中のバス停に、清水二丁目というのがあって、その標識に左に清水一丁目、右に清水三丁目とある。そこを通るとき、いつもこの句を思い出すのだ。作者が清水で、すべて清水だらけというのがおかしい(このインターネットの発信者も清水さんです)。ちなみに、そのすぐ近くには井伏鱒二の家があり、井伏は「清水町の先生」と呼ばれていました。河童の絵と政治マンガで知られる清水崑は文壇句会の常連で、『狐音句集』がある。この題も洒落てますね。音(おん)の「コオン」と狐の鳴き声の「コン」と「崑」。この句と句集については、車谷弘『わが俳句交遊記』で覚えた。冬の句では「古本の化けて今川焼愛し」が面白い。山から初時雨の便りが聞こえてきます。俳句では、そろそろ秋も終り。(井川博年)

[清水付記・もう三十年も前の鎌倉の飲み屋で、清水崑さんと同席したことを思い出した。仕事でもなんでもなく、たまたま店が混んでいたので、そういうことになったのだった。なにせ崑さんは著名人だったので恐縮していたら、にこにこと「同じ清水ですなあ」とおっしゃってくださり、気が楽になった。]


October 27101998

 かけそばや駅から山が見えている

                           奥山甲子男

まれた季節は、いつだろうか。蕎麦といえば普通は秋か冬かということになるが、この場合は駅のホームにある立ち食い蕎麦屋での句だから、無季としておく。作者が見ている山にも、季節感は書かれていない。そのあたりは、読者の想像におまかせなのである。そうした意味での明確な季節感はないのだけれど、まかされた読者の側では、ちゃんと季節感があるように感じられる。そこが面白い。ということは、誰にも駅のホームで「かけそば」を注文する作者の状況がわかり、それがあたかも自分の体験であるように感得されるからだろう。そこで、ある読者は「春」だと思い、別の読者は「秋」だと感じる。それで、いいのだ。とにかく、作者は急いでいる。乗り換えか、あるいはここで下車するのか、いずれにしてもゆっくり食事を取っているヒマはないのである。で、作者は急いで注文して、蕎麦が出てくるまでの束の間に所在なく遠くを見やると、そこには山が連なっていたというわけだ。目前の仕事に追われている目が、ほんの一瞬、見知らぬ「山」に感応する……。それだけの話だが、この種のことは誰にでも起きる。まさに人生の機微を巧みにとらえた句と言えよう。『火』所収。(清水哲男)


October 26101998

 秋風や模様のちがふ皿二つ

                           原 石鼎

壇では、つとに名句として知られている。どこが名句なのか。まずは、次の長い前書が作句時(大正三年・1914)の作者の置かれた生活環境を物語る。「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去つて仮の宿りをなす」。文芸を志すとは、父母を裏切ること。そんな時代風潮のなかで、決然と文芸に身を投じた作者への喝采が一つの根拠だろう。ちなみに、石鼎は医家の生まれだ。第二の根拠は、二枚の皿だけで貧苦を表現した簡潔性である。模様の違う皿が意味するのは、同じ模様の小皿や大皿をセットで買えない貧窮生活だ。しかも、この二枚しか皿を持たないこともうかがえる。そして第三は、皿の冷たさと秋風のそれとの照応の見事さである。詠まれているのは、あくまでも現実的具体的な皿であり秋風であるのだが、この照応性において、秋風のなかの二枚の皿は、宙にでも浮かんでいるような抽象性を獲得している。すなわち、ここで長たらしい前書は消えてしまい、秋風と皿が冷たく響き合う世界だけが、読者を呑み込み魅了するのである。この句には飽きたことがない。名句と言うに間違いはない。『定本石鼎句集』(1968)所収。(清水哲男)




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