October 291998
丸善にノートを買つて鰯雲
依光陽子
第五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)
July 202001
葉も蟹も渦のうちなる土用かな
依光陽子
今日は「土用」の入りだ。春夏秋冬に土用はあって、その季節の終わりの十八日間を言う。陰陽五行説。夏の土用は暑さのピークで、他のそれに比べて季節感が際立つために、単に「土用」といえば夏の土用を指すのが一般的だ。俳句でも夏の季語とされてきた。掲句は、渦巻く水のなかで「葉も蟹も」もみくちゃにされている。「葉も蟹も」に小さな命を代表させているわけで、実際にこんな情景を見られたとしたら、見ている人間も「渦」に吸い込まれ巻き込まれる一つの小さな命に思えてくるに違いない。作者の実見かどうかには関係なく、うだるような暑さの「渦」に翻弄される命のありようが、よく伝わってくる。「土用」で付け加えておけば、今日からの十八日間が元来の「暑中」なので、いまでも律義な人はこの期間中にしか暑中見舞状を出さない。私の知りあいにも、そういう人がいる。また、気になる今年の「土用の丑」は7月25日(水)だ。いずれにしても、夏の真っ盛りがやってきました。読者諸兄姉におかれましては、ご自愛ご専一にお過ごしくださいますように……。「俳句研究」(2001年8月号)所載。(清水哲男)
March 132011
天井に風船あるを知りて眠る
依光陽子
この句が表現しようとしているのは、どんな心情なのでしょうか。吹き抜けの、とんでもなく高い天井の部屋ならともかく、普通の家の天井なら、椅子に乗れば容易にとれるだろう風船を、どうしてそのままにして眠るのでしょうか。体を動かすのが億劫に感じるほどほどの、つらい悩みでもあるのか。あるいは、赤や黄の混じった風船の明るさを、目を閉じる直前まで見ていたいからそうしたのか。どちらにも解釈できますが、個人的にはだるい悩みに冒された人の姿が目に浮かびます。風船と言えば昔、子どもたちが小さかったころにディズニーランドへ行った時のことを思い出します。閉園の時刻まで遊んで、帰りのバスを待っている列に並んでいたときに、土産に買ったミッキーマウスの風船が僕の手から放れて、暗い上空にどこまでも上がって行きました。実に美しい上がり方でしたが、もちろん子どもたちは泣き出し、さんざんな一日の終わりになってしまったのでした。あれもひとつの天井だったかと、ふとこの句を読んで、思いました。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)
July 242015
海鳥の取り落とす餌や大南風
依光陽子
南風(みなみ)は元来船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風(おおみなみ)」と言う。結構な荒波で海鳥も捕獲した餌を取り落とすことがある。閑話休題。佐渡へ向かう定期便は割と大きな船なので少々の風では欠航しない。甲板に出ると鴎が寄ってきて餌をねだる。長年観光客が面白がって餌を与え続けたので、そうした習慣が身に着いてしまったのだろう。日本の海岸線には多くの島が点在し、そこへは何処でも何らかの渡船ルートや観光船コースがある。ある時遊覧船で鯛に餌を撒いていたら海面に落ちる前に鴎に奪われた。あんなひらひら風に舞う餌をさっと咥えるとは名人技である。今度こそ取られまいと餌を投げた瞬間に「こらっ!」と言って手をぱちんと叩いたら鴎が餌を取り損ねた。非日常の想定外の状況下では、猿も木から落ちるし海鳥も餌を取り落とすものである。「俳壇」(2014年12月号)所載。(藤嶋 務)
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