1998N11句

November 01111998

 武蔵野は十一月の欅かな

                           松根東洋城

しかに、十一月の欅(けやき)は美しい。句の武蔵野がどのあたりを指すのかは不明だが、現在の武蔵野市でいえば成蹊大学通りの欅並木が有名である。この季節に黄葉した並木通りに立つと、句境がさわやかに感じられて心地よい。とはいえ、武蔵野市と欅の結びつきはそんなに古いものではなく、成蹊の欅も大正末期に植樹されたものだ。したがって、明治の人である國木田獨歩が『武蔵野』で書いているのは、欅ではなく楢(なら)の林の美しさである。「緑陰に紅葉に、様々の光景を呈する其妙は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである」と威張っている。まだ、渋谷が村であった時代だ。しかし、獨歩の楢林もまた明治の特色なのであって、古く詩歌にうたわれた武蔵野は果てなき萱(かや)原によって代表される。獨歩は、その古い武蔵野のおもかげをなんとか見てみたいと思い、その気持ちが『武蔵野』執筆の動機となった。「『武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間郡に残れり』と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」というのが、開巻冒頭の一行だ。入間郡は、現在の埼玉県入間市。「武蔵野」というと、なんとなくいまの武蔵野市あたりと思っている人が多いようだが、そうではないことがわかる。渋谷なども含め、もっと広大な地域を指す呼称だった。(清水哲男)


November 02111998

 夜寒さの買物に行く近所かな

                           内田百鬼園

和九年(1934)の作。句作年代を知らないと、味わいが薄くなってしまう。煙草だろうか、薬だろうか。いずれにしても、ちょっとした買い物があって近所の店に出かけていく。もちろん、普段着のままである。句作年代が重要というのは、この普段着が「和服」だったことだ。かなり洋服が普及していたとはいっても、家の中でも洋服を着ている人はまだ少なかった。戦前の男も女も、くつろぐときは和服である。和服だから、夜道に出ると肩や胸、袖口のあたりにうそ寒さを感じる。これで素足に下駄だとすれば、なおさらのこと。ほんの「近所」までなのだけれど、季節の確実な移り行きが実感されるのである。もちろんコンビニなどなかった時代だから、店もはやく閉まってしまう。自然と急ぎ足になるので、いっそう夜風も身にしみるというわけだ。なんということもない句であるが、「買物」や「近所」という日常語が新鮮にひびいてくる。昭和初期の都会生活の機微が、さりげない詠みぶりのなかにも、よく認められる。『百鬼園俳句帖』(1934)所収。(清水哲男)


November 03111998

 父母の天長節の明治節

                           原岡昌女

屈の句だが、面白い。十一月三日は、もともとが明治天皇の誕生日で、明治時代には「天長節」と言った。国家によって「明治節」と定められたのは、昭和二年(1927)のことである。だから、作者の明治生まれの両親は今日を毎年「天長節」と呼ぶわけだが、昭和に物心のついた作者は、そのたびに「ああ明治節のことだ」と訂正しながら理解するという趣きだろう。その「明治節」も、昭和二十三年(1948)には「文化の日」と改められた。戦後の新憲法発布を記念して祝日とされたのである。このことは、小学校の教室で誰もが習ったはずだけれど、もう忘れている人も相当にいそうである。憲法と文化との感覚的な釣り合いの悪さが、どうやらそうさせるのだと思う。それにしても、戦後は「文化」がはやった。大流行だった。「文化住宅」やら「文化人」にはじまって「文化コンロ」や「文化包丁」にいたるまで、なんにでも「文化」がくっついていた。「文化」がブランドになっていたのである。東京のラジオ局「文化放送」(JOQR)という呼称も、その名残りだ。いまにして、あのころに喧伝された「文化」とは、いったい何だったのだろうかと思う。それにしても、いまの(!)ワープロソフト(EGWORD6.0)で「天長節」が一発で出たのには驚いた。「明治節」は出なかった。これが、いまの「文化」なのか……。(清水哲男)


November 04111998

 薮蔭や蔦もからまぬ唐辛子

                           萩原朔太郎

わずと知れた口語自由詩の先駆的詩人の句だ。朔太郎の詩観も俳句観も抒情性を根幹に据え、口語詩においても、調べを重視したことでよく知られている。残されている俳句は十七句。掲句は「遺構」と題された七句のうちの一句で、前書には「隠遁の情止みがたく、芭蕉を思うふこと切なり」とある。薮蔭の唐辛子(とうがらし)は詩人自身の境遇を暗示しており、真紅の唐辛子には程遠い弱々しげな色彩の「我」には、もはや蔦もからまないのである。このとき希求するのは、ただ世間から孤絶することのみ。すなわち、隠遁である。実際、晩年の朔太郎は自宅にこもりきりとなり、激しい人間嫌いになっていたようだ。辞世の句というと、案外と明るさを湛えた句が多いなかで、この朔太郎句は真っ暗である。闇である。言葉の本当の意味での「悲観」の句だ。持って生まれた詩的感受性を、最後まで引きずって生きた人という他はない。同じ「遺構」のなかに有名な「虹立つや人馬賑ふ空の上」の句もあり、一見明るくも読めるけれど、前書の「わが幻想の都市は空にあり」を思い合わせれば、やはり現世の闇をうたっている。『萩原朔太郎全集』(1978)所収。(清水哲男)


November 05111998

 団栗の己が落葉に埋れけり

                           渡辺水巴

語は「団栗(どんぐり)」。「落葉」も季語だが、こちらだと冬になってしまうので、この句の場合は秋の「団栗」だ。物の本によると、団栗はブナ科コナラ属の落葉高木である櫟(くぬぎ)の実のことをいうようだ。しかし一般的には、その他の楢(なら)や樫(かし)の実なども団栗と呼んできた。ま、それぞれの人がこれが団栗だと思っている実は、すべて団栗だということにしてもよいと思う。さて、この句は軽い句ではあるけれども、なかなかに読ませる。団栗というと、つい「ドングリコロコロ」の童謡みたいな様子をとらえてしまいがちなので、自分の葉っぱに埋もれている団栗の姿は新鮮にうつる。情景としてはありふれていても、このような句に仕立て上げたのは、やはり水巴の手柄というべきだろう。作句されたのは、明治三十九年(1906)。当時の水巴は東京・浅草に住んでいた。してみると、この頃の浅草には団栗のなる木もあったというわけだ。もしかすると、神社の社(もり)あたりかもしれない……。晩秋の都会の片隅での、これは微笑ましくも秀逸な発見の句である。『水巴句集』(1956)所収。(清水哲男)


November 06111998

 ゐなくなるぞゐなくなるぞと残る虫

                           矢島渚男

の千草も虫の音も、枯れて淋しくなりにけり……。これはこれで素敵な詩だ。が、句のように枯れ果てる一歩手前の虫の音を、このようにとらえた作品は珍しくもあり見事でもある。ここで作者は、わずかに残った虫どもに「ゐなくなるぞ」と、いわば脅迫されている。この句を知ってからというものは、私も「今夜で消えるのか、明日までもつのか」などと、消えていく虫の声が気になって仕方がなくなってしまった。でも、ミもフタもない話をしておけば、虫の音が枯れてくるのは物理的な理由による。一つは、数が減ってくること。これは当たり前。もう一つは、虫の音は周知のようにハネをこすりあわせることで「声」のように聞こえるのだが、初秋のころには元気だったハネも、こすっているうちにだんだんと摩滅してくるからだ。で、晩秋ともなると擦り切れてしまい、哀れをもよおすような音しか出なくなってしまう。決して、虫が感傷的に鳴いているのではない。だが、その物理的な理由による消え入るような細い声を、このように聞いている人もいる。そう思うだけで、残った虫たちには失礼なことながら、逆に心温まる気持ちがしてくる。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


November 07111998

 あるほどの菊抛げ入れよ棺の中

                           夏目漱石

来数ある追悼吟のなかでも、屈指の名作と言えるだろう。手向けられたのは、大塚楠緒子という女性だ。楠緒子は、漱石の親友で美学者の大塚保治の夫人だった。短歌をよくした人で、漱石終生の恋人であったという説もある。彼女の訃報を、漱石は病中に聞いた。日記に「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」とある。句意は説明するまでもなく明らかだが、「抛(な)げ入れよ」という命令形が作者の悲嘆をよく表現しえている。誰にというのでもなく、やり場のない悲しみが咄嗟に激情的に吐かせた命令口調だ。漱石は俳句を、おおむね「現実とはちがう別天地のようなものとして」(坪内稔典)楽しんでいたのであるが、このときばかりは事情が違った。人生の非情を全身で受けとめ、現実をカッと睨み据えている。不自由な病床にあったことも手伝って、この睨み据えは全霊的であり、そのただならぬ気配には鬼気迫るものがある。挨拶としての哀悼をはるかに越えた作者の慟哭が、読む者にも泣けとごとくに伝わってくる。名作と言う所以である。『漱石俳句集』(岩波文庫・1990)所収。(清水哲男)


November 08111998

 立冬の女生きいき両手に荷

                           岡本 眸

冬。毎年この文字に触れるだけで、寒気が増してくるように思われる。まだ秋色は濃いが、立冬を過ぎると東京あたりでも北風の吹く日が多くなり、北国からは雪の便りも聞こえてきて、日増しに寒くなってくる。そんな思いから、立冬となると、いささか気分が重くなるものだ。しかし、この句の女は立冬なんぞは知らないように、元気である。両手に重い荷物をぶら下げて、平然と歩いている。その姿は「生きいき」と輝いている。周囲の男どもは、たぶんしょぼくれた感じで歩いているのだろう。ここで作者は、この女に託して健康であることのありがたさ、素晴らしさを語っている。というのも、作者には大病で手術した体験があり、それだけになおさら健康には敏感であるわけだ。同じ時期の句に「爪のいろ明るく落葉はじまりぬ」がある。爪の色のよしあしは、健康のバロメーターという。この日の作者は、実に元気なのだ。この二句を読み合わせると、掲句の女は作者自身かもしれないと思えてきた。自画像と読むほうが適切かもしれない。そのほうが自分を突き放した感じがあるだけに、俳諧的には面白い。『冬』(1976)所収。(清水哲男)


November 09111998

 淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守

                           原 石鼎

正二年(1913)、深吉野での作品。俳句を読む楽しさは、句に仕掛けられた謎を解くことにある。推理小説では著者が謎を解いてみせるが、俳句では探偵の役が読者にゆだねられている。……とは、復本一郎氏の至言だ。ただ謎にもいろいろあって、句が生まれたときと同時代に生きていればなんでもない言葉が、時を経てわからなくなる謎がもっとも困る。俳句観賞というとき、こうした死語に費やされる説明の何と多いことか。句の「鹿火屋(かびや)」も代表的な例で、少年期に農村で暮らした私にも、これが季語だと言われてもピンと来ない。「鹿火屋」とは、田畑を鹿や猪に荒らされないために、夜間獣が嫌う臭いものを燻らせた小屋のことを言った。句のように、ときどき銅鑼(ドラ)を打ち鳴らしもしたらしい。森閑とした闇のなかで番人は夜通し起きているわけだから、その淋しさに耐えかねて、ガンガガーンと内心では遠慮しつつもしばしば打ちたくなっただろう。それを里で聞いている作者には、誰とも知らない彼の淋しさが心に凍み入るのである。石鼎が仕掛けた謎は、もとより「鹿火屋」にはなく、このときの「鹿火屋守」の心情や如何にということであった。『花影』(1937)所収。(清水哲男)


November 10111998

 秋冷のまなじりにあるみだれ髪

                           飯田蛇笏

の句を解説して、歌人であり小説家でもあった上田三四二は、『鑑賞現代俳句全集・第二巻』(立風書房・1980)で「僅々十七字の中から、明眸の女人の顔がくっきりと浮かび上がる」と述べている。そうだろうか。私が直覚的に感じるのは、美人(明眸)の顔というよりも、むしろ男にとっての女性の「性」そのものである。明眸にこしたことはないけれど、作者が訴えているのはそういうことではなくて、冷たい秋風のなかでのまなじりにかかった髪の毛に、不意に触発される男でなければ感じられない「性意識」なのではあるまいか。顔はさして問題ではなく、冷たい外気のなかにあってもなお熱く発現してしまう(と、男が感じる)「女」全体のありようを象徴させている句だと思う。昭和二十九年(1954)の作品というから、蛇笏は七十歳を間近にしていたわけで、単に美人の顔をそれとして詠むのであれば、このような技巧は不必要である。女の顔の美しさよりも、女の「性」のしたたかな熱さに、作者は一瞬たじろいでいるのだ。だからこそ「秋冷」の季語も利いてくるのである。『飯田蛇笏全句集』(1971)所収。(清水哲男)


November 11111998

 六面の銀屏に灯のもみ合へり

                           上村占魚

箔地の大屏風が引きまわしてあり、その六面に灯火があたっている様子。たしかに光りは反射し合ってもみ合うように見え、その様で屏風はひときわ豪奢な感じに映えてくる。屏風というと、たいていの人は屏風絵に心を奪われるようだが、作者は屏風という存在そのものに光りをあてていると言うべきか。句の屏風も、今日でも結婚披露宴などで用いられる金屏風などと同じく様式化されたものだが、元来は風よけの衝立として中国から渡来した生活道具であった。だから、屏風は冬の季語。六曲一双が基準であるが、これは簡単に倒れないための物理的な工夫から出た結論だろう。私が子供だったころには、まだ生活道具としての屏風が使われていた。句のような大きいものではなく、高さが一メートルにも足りない小屏風で、寝ている赤ん坊に隙間風があたらないように立てられていたことを覚えている。そんな小さな屏風は無地であったが、やがて赤ん坊が大きくなってくると、絶好の落書きボードに様変わりするのは当然の運命である。なにせ大の大人にしてからが、屏風の白くて大きな平面の誘惑に耐え切れずに、ああでもないこうでもないと箔を貼ったり絵を描いたりしてきたのだから……。『鮎』(1946)所収。(清水哲男)


November 12111998

 これよりは菊の酒また菊枕

                           山口青邨

暦をむかえ、東大を定年退職する願書をしたためたときの感慨。自解がある。「大学におる頃は外では飲んでも宅では晩酌することはなかった。晩酌という言葉はいかにも老人めいた、飲酒家(さけのみ)めいた言葉で嫌いだ。大学を退いたら愉しみのために健康のためにすこし飲もうと思った。『菊の酒』は重陽の祝の酒だが盃に菊の花弁をうかべて飲み、災厄をはらうという中国の風習でもあった。句は菊の酒を飲み、菊枕をして、かぐわしい中に眠ろう、長い間の学究生活も一段落ついた、これからは悠々自適余生を楽しもう、有難いことだという意である」。昭和二十七年(1952)の作。宮仕えから解放される喜びが素直に出ているが、今日の読者からすると、なんだか呑気すぎるような気もする。高齢化社会など想像も及ばなかった時代だから、還暦すなわち余生へと、気持ちが自然につながっているせいである。それにしても「晩酌」という言葉が嫌いな人がいたことには、ちょっとびっくりしてしまった。そんなに老人くさい言葉ですかねエ。ちなみに、青邨の没年は昭和六十三年(1988)で、享年は九十六歳。長い長い余生であった。『冬青空』(1957)所収。(清水哲男)


November 13111998

 酒断って知る桎梏のごとき夜長

                           楠本憲吉

ィスキー一本くらいは軽くあけていたというのだから、作者は相当の酒豪であった。ために肝臓を冒され、「断酒という苦界に追放」されてしまった。酒好きの読者には、解説など不要であろう。秋の「夜長」の実感が胸をついてくるようだ。他にも俳句ともつぶやきともつかぬ「酒飲めぬ街にやたらに赤信号」があり、これまた酒飲みの心にしみてくる。自嘲的自解に曰く。「私が胃をやられたとき、今はもう故人の伯父が、『可哀相になあ。「たこ梅」のカウンターでおでんを肴に熱燗一杯やる人生の楽しみが、おまはんにはのうなってしまいよった。』ということばが、いまさら実感として思い出される」。それでなくとも長い夜の季節を、作者はどうやり過ごしていたのだろうか。というわけで、ま、おたがい「ほどほどに」やりましょうや……。ただし、この「ほどほどに」という言葉を酒飲みが大嫌いなことを、酒を飲まない人は知らないのだから、世の中は厄介である。『自選自解・楠本憲吉句集』(1985)所収。(清水哲男)


November 14111998

 朝餉なる小蕪がにほふやや寒く

                           及川 貞

語は蕪(冬の季語)ではなくて、この場合は「やや寒」であり、季節は晩秋だ。いまでこそ蕪(かぶ)は一年中出回るようになったけれど、元来は晩秋から冬にかけて収穫された野菜である。不思議なもので、この時期になると香りが高くなってくる。暑い時期の蕪には、まったく匂いがない。したがって、晩秋の朝の食卓に出されたこの小蕪は、さぞかし匂い立っていたことだろう。味噌汁に入れられたのか、それとも糠味噌漬けであろうか。どちらでもよく、読者の好きなほうにまかされている。やや寒の朝の実感が小蕪の香りと実によく釣り合っており、こんなときにこそ「よくぞ日本に生まれけり」と合点したくなる。蕪は小蕪もよいが、大蕪もよい。私は京都に暮らしていたことがあるので、巨大な聖護院蕪は忘れられない。普通でも2キロくらいの重さはありそうだ。京都名産千枚漬を作るアレである。ただ、今年は天候不順の影響で、聖護院蕪の収穫も大幅に遅れているという。したがって、まだ京都でも千枚漬はそんなに出回ってはいないらしい。毎朝のように見ているテレビ番組『はなまるマーケット』(TBSテレビ系)の情報による。(清水哲男)


November 15111998

 ふと咲けば山茶花の散りはじめかな

                           平井照敏

ことに句の言う通りであって、山茶花ほどにせわしない花はない。「ふと」咲いたかと思うと、すぐに散りはじめる。散ったかと思う暇もなく、すぐに次々と咲きはじめる。したがって、いつも咲いているが、いつも散っている。桜花のように、散るのを惜しまれる花ではなくて、散るのをむしろアキレられる花だと言ってもよいだろう。古来、この花についてだけは、異常なほどに散る様子を詠んだ句が多いのもうなずける。作者の編纂した『新歳時記』(河出文庫・1989)にも、たとえば寒川鼠骨の「無始無終山茶花たゞに開落す」というせわしなさの極地のような句があげられており、他にも「山茶花の散るにまかせて晴れ渡り」(永井龍男)が載っている。我が家の庭にもコイツが一本あって、この時間にもしきりに咲き、しきりに散っているはずだ。散り敷かれた淡紅色のはなびらのおかげで、庭はにぎやかなこと限りなし。どこにでもあるさりげない存在の植物ながら、この時季の賑やかな山茶花には、毎年大いに楽しませてもらっている。「俳句文芸」(1998年11月号)所載。(清水哲男)


November 16111998

 昼めしの精進揚や冬隣

                           川上梨屋

進揚(しょうじんあげ)は、野菜の天ぷらのこと。人参、ごぼう、茄子、さといも、れんこん、南瓜……。そして、ときには三つ葉などの葉物類。魚など生臭いものは揚げないので、精進揚という。あっさりしていて、私の好みだ。深大寺(東京・調布)の山門への登り口に野草の天ぷらを出す店があって、これも精進揚である。たまに寄ってみるが、いつも美味い。ところで、句の精進揚は、昨夜のおかずの残りか何かで冷えきっていると読んだ。暖かい季節には、冷えた天ぷらもまた美味なものだが、そぞろ寒さがきざしてくる頃ともなると、その冷たさは歯にしみ、侘びしさにも通じてくる。作者の職業は、実は「鰻屋」さん。で、これから店を開ける準備にかかる前の昼飯なのだから、悠長におかずなど作ってはいられないのだ。昨夜の残り物で、適当にすませてしまうというわけである。ありあわせの精進揚での昼飯に、その冷たい侘びしさともあいまって、冬がもうすぐ近くに来ていることを、いやでも実感させられてしまう。食べ物を扱っている人は、やはり食べ物での説得が人一倍巧みである。(清水哲男)


November 17111998

 とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな

                           松本たかし

火は、ご馳走だった。昼間であれば紫色の煙のよい匂いがご馳走だったし、朝や夕方には冷えた手足を温めてくれるご馳走だった。句は夕刻のご馳走を味わっている間に、うかつにも日が暮れたのに気がつかなかったというところだ。ふと振り返ってみると、空は既に「とつぷりと」暮れてしまっていたのである。焚火の魅力が、とても美しく表現されている。誰にでも、こんな思い出はあるだろう。ところで、巽聖歌が詩を書いた「たき火」という歌がある。「かきねの かきねの まがりかど」という歌い出しだ。小学校で習った。これまた焚火をうたった名作であるが、川崎洋『大人のための歌の教科書』(いそっぷ社)によれば、この童謡の発祥の地という立て札が、いまも東京の中野区の旧家にあるそうだ。そういえば、焚火は都会の住宅地ならではの風物詩だった。揚句の舞台も、鎌倉である。農村でももちろん焚火はしたが、生活上必要不可欠の焚火には、実際的で繊細な抒情味には欠けている。それから「たき火」の作曲者は渡辺茂という方で、ご健在だ。私の娘はふたりとも、小学校で渡辺先生に音楽を教えていただいた。我が家の自慢である。最近は、ちょっと焚火をしただけでも警察に電話をされるという。もはや「とつぷりと」先に暮れているのは、人情のほうであるらしい。(清水哲男)


November 18111998

 夕紅葉なにも雑へずかく窮る

                           竹中 宏

の人の句には、難しい漢字や読ませ方が多い。主宰誌の「翔臨」を読むときには、辞書を片手にということになる。しかし、よく読んでみると、たしかに難しい漢字や読ませ方が、作者の必然的な帰着であることが納得される。どうしても他の読みやすい漢字では代替できない境地が、そうさせているのだ。句の「雑へず」は「まじへず」と読ませ、「窮る」は「きわまる」と読む。つるべ落としの秋の日を背景に、紅葉が今日を最後とばかりに冷たくも鮮やかに映えている。このとき、「なにも雑へず」という言葉は雑木の紅葉を暗示しており、なにもまじえていない雑木という形容矛盾が、矛盾とは少しも感じられないほどに窮まっているという面白さ。やはり、これらの漢字が使われて、はじめて句は視覚的に凡庸を脱しているのである。作者は京都の人。京都には紅葉の名所は多いけれど、地元の人はそんなところをわざわざ訪ねたりはしない。この紅葉もそこらへんの紅葉、つまり雑なる場所の紅葉だろう。そこが、また好もしい。「俳句朝日」(1998年12月号)所載。(清水哲男)


November 19111998

 足袋つぐやノラともならず教師妻

                           杉田久女

女の、あまりにも有名な代表作。ノラはイプセン『人形の家』の女主人公の名前で、彼女は「では、さようなら」と言って夫ヘルメルのもとを去っていった。旧家(愛知県西加茂郡)の嫁として、夫の赴任先である小倉で二児をもうけ、善良だが古い考え方を持つ教師である夫に仕えていた久女は、破れた足袋を繕いながら、かく自嘲する。「暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失つている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、たゞ忍苦と諦観の道をどこまでもふみしめてゆく」。句もコメントも高浜虚子の俳誌「ホトトギス」誌上に発表されたものだが、こんなことを書かれては、いかに善良な夫でも、黙って見過ごすわけにはいかなかっただろう。親戚などの間でも、相当に物議をかもしたようだ。大正十年(1921)の作で、ときに久女三十二歳。たしかに当時の嫁の立場は、とくに久女のように東京で高等教育を受けた(東京高等師範学校付属高等女学校卒)女性には辛かったろう。その辛さはよく出ているが、しかし、人には「それを言ってはおしまい」ということもあるのだ。まことに悲しい名句である。(清水哲男)


November 20111998

 着ぶくれし子に発掘のもの並ぶ

                           浜崎素粒子

今の遺跡発掘の成果には目覚ましいものがあるが、発掘現場を詠んだ句は珍しい。子供は好奇心のカタマリだから、北風の吹くなかでも、飽きもせずに大人たちの作業を目を輝かせて眺めているのだ。その周辺に、次々と土器のかけらやら木片やらが置かれてゆく。「さわっちゃ駄目だよ」くらいは、言われているだろう。そんな泥だらけのものに興味はないので、さわりたくもないが、子供はそのうちに、きっと何かスゴいものが出てくるのではないかと、いつまでもその場を離れない。そんな子供の姿に、作者は目を細めている。着ぶくれた子供に、昔の自分を重ね合わせていてるのかもしれない。ここで、「子供」と「発掘のもの」とは、同時的並列的に詠まれている。しかし、よく考えてみれば、「子供」は未来へとつながる時間を持ち、「発掘のもの」は過去へとさかのぼる時間を持つ。この時間的垂直性を、眼前に並列させたところが、この句の面白さだ。なんでもなさそうな光景が、かく詠まれることにより、かく深みのある作品となった。「俳句文芸」(1998年2月号)所載。(清水哲男)


November 21111998

 帰り花鶴折るうちに折り殺す

                           赤尾兜子

聞やテレビで、今年はしきりに「帰り花」が報道される。「帰り花」は「狂ひ花」とも言われて、異常気象のために、冬に咲くはずもない桜や桃や梨の花が咲くことを指す。いわゆる「小春日和」がながくつづいたりすることで、花たちも咲く季節を間違えてしまうというわけだ。この句には、平井照敏の解説がある。「『鶴折るうちに折り殺す』という表現から、われわれは、折り紙で鶴を折っているうちに、指先のこまかい動きに堪えきれなくなって、紙をまるめてしまうか、あるいは無器用に首を引き出すところでつい力を入れすぎて引き裂いてしまうかするところを想像するのだが、それを『鶴折るうちに折り殺す』ということばで表現するところに、兜子のいらだつ神経、あるいは残酷にまでたかぶる心理を感ずるのである。……」(『鑑賞現代俳句全集』第十巻・1981)。私もそうだが、たいていの人は「帰り花」に首をかしげながらも、どちらかというと明るい心持ちになるのが普通だろう。しかし、兜子は「狂ひ花」の季節に完全に苛立っている。このような鋭敏な感覚を指して、世間はしばしば「狂ひ花」のように見立てたりする。でも、この場合、狂っているのは、少なくとも兜子のほうではないのである。『歳華集』(1975)所収。(清水哲男)


November 22111998

 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに

                           久保田万太郎

の市は、十一月の酉の日に各地の神社で行われる祭礼。若いころ、新宿・花園神社の近くの酒場に入り浸っていた。そこのマダムが熱心で、毎年客の誰かれを誘っては熊手を求めに出かけていたものだが、私はいつも留守番組であった。行かなかった理由は、単純に寒いから……。とくに二の酉ともなると、夜は冷えこむ。何を好きこのんで、寒空の下で震えに出かける必要があろうか。とまあ、不精だったわけだ。したがって逆に、句の作者のほっとしたような心持ちだけはわかる。曇ってくれば、多少とも寒気が薄れる。ありがたや、という気分。それと「二の酉」は「一の酉」とはちがって、少し緊張感には欠ける面がある。そんな気分的な余裕も、よく描かれている。各地の神社の祭礼と言ったが、本来は鷲(おおとり)神社のそれで、東京だと浅草千束の大鳥神社が発祥の地。江戸期にはふだんは誰も参詣せず、酉の市の日だけ賑わったそうで、なんだか可哀相な神社だったらしい。もっと可哀相なのは、実は鷲神社の本社は大阪堺の大鳥神社なのだが、本店は栄えずに支店のほうがお株を奪ってしまったことだ。大阪の人に「お酉さま」と言っても、「ナンヤ、ソレ」みたいな顔をする。(清水哲男)


November 23111998

 余日なき十一月の予定表

                           星野立子

一月と言ったところに、心憎いほどの巧みさがある。これを「十二月の予定表」とやると、ひどく月並みでつまらない句になってしまう。ただし、句の背後には、実は「十二月」がちゃんと隠されているのであって、作者の心は明らかに師走に向いているのだ。けれども、そのことを表面には出さないで、さりげなくそれと暗示している。このあたりの隠し味の利かせ方を、俳句の妙と言うべきなのだろう。俳句ならではの物言いである。十一月もあと僅かともなれば、誰の予定表にも十二月が染み込んでくるようで、だんだんと追い立てられるような気分になってくる。でも、必ずしもそれがすべて鬱陶(うっとう)しいというわけでもなく、そこらあたりが十二月のせっぱ詰まった気分とは、まだかなり違うのである。今月の私の予定表も、かなりたてこんでいる。今週の土曜日の項には「忘年会」と記されている。毎年のことながら、ドサクサにまぎれるようにして師走へと入り込んでいく。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


November 24111998

 あやとりのエッフェル塔も冬に入る

                           有馬朗人

ういえば、あやとり遊びで作る形には名前がついていた。地方によって異なるのだろうが、「川」だとか「橋」だとか「帚(ほうき)」だとか……。「エッフェル塔」は初耳だが、形状から推察して「帚」のように思える。あるいは、作者の創作かもしれない。いずれにしても作者は、あやとりの形から連想して、本物のパリのエッフェル塔を思っている。どんよりと雲のたれ込めたパリの冬が、身辺にはじまったように感じている。もとより、連想の源は、あやとりが寒い時期の室内での遊びであることにある。外国との交流が頻繁な作者ならではの句境だろう。作者には、一度だけお目にかかった。東大学長に選出される一週間前くらいだったろうか。ラーメン屋に毛の生えたような麹町の小さな店に、友人がアルコールの勢いで「呼び出した」という格好だった。彼は編集者として、何冊か有馬さんの本を作ったことがある。三時間ほど、にこやかに応接してくださった。話の中身は省略するが、一週間後にまたぞろ私がひとりでその店に出かけていくと、ちょうどテレビのニュースが有馬さんの学長決定を告げているところだった。それを見ていた店のお兄さんが叫んだものである。「あっ、このヒト、あのオジサンだっ」。『立志』(1998)所収。(清水哲男)

[読者から教えていただきました。エッフェル塔の作り方には何通りかあるようです]もとはしみほさんの方法。小さいころに母から習ったもので「東京タワー」と言っていました。つくった梯子を顔の前にもっていき、ちょうど真ん中の交点になったところをくちびるで挟んで、両の指からひもがはずれないように気をつけながら両手をそっと下にさげる。これだけです(挟んだ所が塔の頂上になります)。作った当人には、せっかくの作品がちゃんと見えないのが欠点ですが、子どもたちに披露するにはもってこいです。 鈴木麻理さんの方法。こちらは口を使いません。鈴木志郎康さんが、以上の二通りの完成写真と、もう一つ、インディアン方式のタワーの写真を撮ってくれました。どうぞ、ご覧ください。みなさん、ありがとうございました。現・文部大臣である作者が詠んだエッフェル塔は、果たしてどれなのでしょうか。チャンスがあったら、うかがってみます。


November 25111998

 手袋を脱いで握りし別れかな

                           川口松太郎

同士の別れだ。いろいろな場面が思い浮かぶが、たとえば遠くに赴任地が決まり旅立っていく親友との駅頭の別れなどである。日頃は「手袋の手を振る軽き別れあり」(池内友次郎)程度の挨拶であったのが、もうこれからは気軽に会うこともできないとなると、お互いがごく自然に手袋を脱いで固い握手をかわすことになる。力をこめて相手の手を握り、そのことで変わらぬ友情を誓いあい、伝えあう。このような場合に手袋を脱ぐのはごく自然なふるまいだし、礼節の初歩みたいなものだけれど、脱ぐべきか脱がざるべきか、判断に迷うことが日常には多い。とくに、女性の場合は迷うのではなかろうか。映画で見る貴婦人などは、まず手袋を脱がない。それは貴婦人だからであって、貴婦人でない現代女性は、いったい着脱の基準をどのあたりに定めているのだろう。山口波津女に「花を買ふ手袋のままそれを指し」という句がある。こんな場面を句にしたということは、この行為が自分の価値基準に照らしてノーマルではないからである。本来ならば、手袋を脱いで店の人に指示すべきであったのだ。おタカくとまっているように思われたかもしれないという危惧の念と、急いで花を求めなければならなかった事情との間で、作者の心はいつまでも揺れ動いている。(清水哲男)


November 26111998

 焼跡を一番電車通りそむ

                           清崎敏郎

の早朝(「火事」は冬の季語)。昨夜の火事はすっかりおさまっているが、水浸しの焼け跡からはまだ焦げ臭い匂いがただよってくる。火事騒ぎで眠れぬ夜を過ごした作者は、気になって、夜明けとともに出かけてきたのだろう。焼けたのは、作者とはいささか関わりのあった人の住居か店舗かもしれない。他にも、様子を見に来た人が何人か黙ってたたずんでいる。そこへ、いつもの朝と変わりなく、一番電車がガタガタと音を立ててやって来、とくにスピードをゆるめるでもなく行ってしまった。市街電車だ。淡々とした客観描写の句だが、それだけに都会生活の哀愁が色濃く染みわたってくる。電車は、つまり都会を構成するシステムは、焼けだされた人のことなど構ってはいられないのだ。定まった時刻に、いつもと変わらぬスピードで走らなければならないのである。しかし、これを非情と作者は見ていない。そのようなシステムに従って生きている自己を、一番電車を見送りながらしっかりと再確認したのである。『東葛飾』(1977)所収。(清水哲男)


November 27111998

 月夜しぐれ銀婚の銀降るように

                           佐藤鬼房

婚の日の月夜に、まさかの時雨れである。その雨の糸を銀と見立てた、まことに美しい抒情句だ。このように、俳句の得意の一つは、境涯をうたうことにある。それも、人生や生活の来し方の余計なあれやこれやを可能なかぎり削り落として、辿り着いた純なる心持ちをうたうのである。このあたりが現代詩などとはまったく違った方法であり、俳句が好きになるかどうかも、一つはこうした境涯句に賛成できるか否かにかかっていると思う。現代詩とて、もとより境涯をうたうことはある。しかし、俳人と大きく異なるのは、境涯を辿り着いた地点とは見ないところだ。銀婚であれ何であれ、それらを人生や生活のプロセスとしてつかまえようとする。したがって、純なる心持ちなどは信じない。仮にそういう心持ちがあるにしても、それを極力疑おうとする。今年出た詩集に、多田智満子が境涯を書いたと言える『川のほとりに』があるが、読んでいると俳人の方法とのとてつもない落差を感じてしまう。彼女を誘ういわば「死神」は「死ぬのもなかなかいいものだよ」などと、平気で言うのである。明らかに、境涯をプロセスとして捉えている書き方だ。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


November 28111998

 梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬

                           飯田龍太

斐は盆地(甲府盆地)だから、夏はひどく暑く、冬の底冷えは厳しい。その意味で、私の知っている土地で言うと、京都の気候に似ている。似ているからといって、しかし、この句を「京の冬」とやっても通用しない。京都には、「真赤ぞ」の「ぞ」を受けとめるだけの地力に欠けているからである。やはり、作者のよく知る「甲斐の冬」でなければならないのだ。甲斐には、作者渾身の「ぞ」を受けとめて跳ね返すほどのパワーがある。このような「ぞ」と釣り合う土地は、少なくとも現代の大都市にはないだろう。さて、この句は何を言いたいのか。わからなくて何度も舌頭にころがしているうちに、深い郷土愛に根ざした自己激励の句だと思えてきた。「ぞ」は甲斐の国に向けられていると同時に、作者自身にも向けられている。郷土に向けて叫ばれているときの真っ赤な種は作者自身であり、作者に向けられているときのそれは郷土の守護霊のようなものだ。そしてこのとき、作者の眼前に真っ赤な種があるわけではないだろう。厳寒の郷土にあっての身震いするような志が、おのずから引き寄せた鮮やかなイメージなのである。(清水哲男)


November 29111998

 冬星照らすレグホンの胸嫁寝しや

                           香西照雄

祖「腸詰俳句」の中村草田男に師事した人ならではの作品だ。「腸詰俳句」の命名は山本健吉によるものだが、とにかく俳句という小さな詩型にいろいろなものをギュウギュウ詰め込むことをもって特長とする。この句でいえば、たいていの俳人は下五の「嫁寝しや」までを入れることは考えない。考えついたとしても、放棄する。放棄することによって、すらりとした美しい句の姿ができるからだ。そこらへんを草田男は、たとえ姿はきれいじゃなくても、言いたいことは言わなければならぬと突進した。作者もまた、同じ道を行った。戦後も六年ほど過ぎた寒い夜の句だ。レグホンは鶏の種類で、この場合は「白色レグホン」だろう。その純白の胸が冬空の下の鶏小屋にうっすらと見えている様子は、私も何度も見たことがあり、一種の寂寥感をかき立ててくる光景だった。子供だった私には、人間の女性の胸を思わせるという連想までにはいたらなかったけれど、わけもなく切ない気持ちになったことだけは覚えている。作者は、鶏も眠ってしまったこの時間に、我が妻も含めて世間の「嫁」たちは、忙しい家事から解放されて、やすらかに床につけただろうか。と、社会的な弱者でしかなかったすべての「嫁」たちに対して、ヒューマンな挨拶を送っている。『対話』(1964)所収。(清水哲男)


November 30111998

 死にたれば人来て大根煮きはじむ

                           下村槐太

かが亡くなると、近所の主婦たちが総出で炊き出しをはじめる。今の都会ではすっかりすたれてしまった風習だが、冠婚葬祭に手助けをするのは、昔の近所づきあいの原点であった。たとえ「村八分」にした家でも、葬いのときだけは別であったという。下村槐太(1910-66)は、大阪の人。大阪は、こういうことには特にうるさかった土地柄だ。ここで、槐太と死者との縁の深さは知らないが、そんな風習を突き放して詠んでいる。俗事に距離を置いている。はっきり言って、「くそくらえ」と冷笑している。子供の頃に私が体験した範囲で書いておけば、弔いの家の台所という場所は総じて明るかったし、女たちは生き生きと活躍していた。当たり前である。冠婚葬祭のときだけは、家庭のルールなど無視してもよかったのだから……。主婦にとってはこの機会を提供してくれた相手が、死者であろうが何であろうが、いっこうに構わないのであった。一方、槐太はそうした活気を茫然と眺めている。俗事のタフさにたじろいでいて、まるで生と死の輪廻の外に立っている人のようだ。人間、タフでなければ生きてはいけない。しかし、タフな人間には、いわば天才的な鈍感さも要求されるということだ。そして、槐太自身は、貧窮のうちに不遇な死に方をした。このときにも、大根が盛大に煮かれたかどうかは、もとより私の知るところではない。『下村槐太全句集』(1977)所収(清水哲男)




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