November 041998
薮蔭や蔦もからまぬ唐辛子
萩原朔太郎
言わずと知れた口語自由詩の先駆的詩人の句だ。朔太郎の詩観も俳句観も抒情性を根幹に据え、口語詩においても、調べを重視したことでよく知られている。残されている俳句は十七句。掲句は「遺構」と題された七句のうちの一句で、前書には「隠遁の情止みがたく、芭蕉を思うふこと切なり」とある。薮蔭の唐辛子(とうがらし)は詩人自身の境遇を暗示しており、真紅の唐辛子には程遠い弱々しげな色彩の「我」には、もはや蔦もからまないのである。このとき希求するのは、ただ世間から孤絶することのみ。すなわち、隠遁である。実際、晩年の朔太郎は自宅にこもりきりとなり、激しい人間嫌いになっていたようだ。辞世の句というと、案外と明るさを湛えた句が多いなかで、この朔太郎句は真っ暗である。闇である。言葉の本当の意味での「悲観」の句だ。持って生まれた詩的感受性を、最後まで引きずって生きた人という他はない。同じ「遺構」のなかに有名な「虹立つや人馬賑ふ空の上」の句もあり、一見明るくも読めるけれど、前書の「わが幻想の都市は空にあり」を思い合わせれば、やはり現世の闇をうたっている。『萩原朔太郎全集』(1978)所収。(清水哲男)
October 012004
鉢植に売るや都のたうがらし
小林一茶
季語は「たうがらし(唐辛子)」で秋。真紅に色づいた唐辛子は、蕪村の「うつくしや野分の後のたうがらし」でも彷佛とするように、鮮やかに美しい。だが、蕪村にせよ一茶にせよ、唐辛子を飾って楽しむなどという発想はこれっぽっちも無かっただろう。ふうむ、「都」では唐辛子までを花と同格に扱って「鉢植」で売るものなのか。こんなものが売れるとはと、いささか心外でもあり、呆れ加減でもあり、しかしどこかで都会特有の斬新なセンスに触れた思いも込められている。むろん現在ほどではないにしても、江戸期の都会もまた、野や畑といった自然環境からどんどん遠ざかってゆく過程にあった。したがって、かつての野や畑への郷愁を覚える人は多かったにちがいない。そこで自然を飾り物に細工する商売が登場してくるというわけで、「虫売り」などもその典型的な類だ。戦後の田舎に育った私ですら、本来がタダの虫を売る発想には当然のように馴染めず、柿や栗が売られていることにもびっくりしたし、ましてやススキの穂に値段がつくなどは嘘ではないかと思ったほどだった。でも一方では、野や畑から隔絶されてみると、田舎ではそこらへんにあった何でもない物が、一種独特な光彩を帯びはじめたように感じられたのも事実で、掲句の一茶もそうしたあたりから詠んでいると思われた。(清水哲男)
October 152004
唐辛子乾き一村軽くなる
塩路隆子
季語は「唐辛子」で秋。「唐」とつくが、日本には南方からポルトガルの宣教師が持ってきたとされる。「唐」という言葉は中国とは無関係に、外来の意でも用いられた。句は、晴天好日の村の様子を詠んでいる。それぞれの家の軒先などに吊るされた唐辛子が、良い天気に乾いてゆく。その唐辛子のいかにも軽くなった感じから、村全体「一村」が「軽くなり」と大きく言い放ったところが面白い。あくまでも天は高く、あくまでも静かな村の真昼の雰囲気が、よく伝わってくる。私が子供だったころの田舎でも、あちこちに干してあったものだが、あれはいったい何のためだったのだろうか。最近になって、ふっと疑問に思った。家庭で香辛料にするのなら、あんなに大量に必要はないだろうし、薬用に使うという話も聞いたことがない。といって商売にしていたとも思えないから、謎である。他ならぬ我が家の場合にも、主として何に使用していたのかは記憶にない。大根などの煮物に入ってはいたけれど、あんなには必要なかったはずだ。冬の日、この干した唐辛子を悪戯で、教室の暖房用の大きな火鉢に放り込んだヤツがいて、ものすごい刺激臭を含んだ煙がたちこめ騒然となった。とても目が開けていられず、みんなで表に飛び出した。以来、悪ガキたちは妙に唐辛子に親近感を覚えたものだが、これは割に真っ当な(?)使い方だったようだ。というのも、日本では最初食用には使われず、朝鮮出兵の折りには毒薬(目つぶし用)として用いられたそうだからである。『美しき黴』(2004)所載。(清水哲男)
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