読売が中央公論を吸収。中公社員も悩むだろうが、読売の出版部だってどうなるか。




1998ソスN11ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 04111998

 薮蔭や蔦もからまぬ唐辛子

                           萩原朔太郎

わずと知れた口語自由詩の先駆的詩人の句だ。朔太郎の詩観も俳句観も抒情性を根幹に据え、口語詩においても、調べを重視したことでよく知られている。残されている俳句は十七句。掲句は「遺構」と題された七句のうちの一句で、前書には「隠遁の情止みがたく、芭蕉を思うふこと切なり」とある。薮蔭の唐辛子(とうがらし)は詩人自身の境遇を暗示しており、真紅の唐辛子には程遠い弱々しげな色彩の「我」には、もはや蔦もからまないのである。このとき希求するのは、ただ世間から孤絶することのみ。すなわち、隠遁である。実際、晩年の朔太郎は自宅にこもりきりとなり、激しい人間嫌いになっていたようだ。辞世の句というと、案外と明るさを湛えた句が多いなかで、この朔太郎句は真っ暗である。闇である。言葉の本当の意味での「悲観」の句だ。持って生まれた詩的感受性を、最後まで引きずって生きた人という他はない。同じ「遺構」のなかに有名な「虹立つや人馬賑ふ空の上」の句もあり、一見明るくも読めるけれど、前書の「わが幻想の都市は空にあり」を思い合わせれば、やはり現世の闇をうたっている。『萩原朔太郎全集』(1978)所収。(清水哲男)


November 03111998

 父母の天長節の明治節

                           原岡昌女

屈の句だが、面白い。十一月三日は、もともとが明治天皇の誕生日で、明治時代には「天長節」と言った。国家によって「明治節」と定められたのは、昭和二年(1927)のことである。だから、作者の明治生まれの両親は今日を毎年「天長節」と呼ぶわけだが、昭和に物心のついた作者は、そのたびに「ああ明治節のことだ」と訂正しながら理解するという趣きだろう。その「明治節」も、昭和二十三年(1948)には「文化の日」と改められた。戦後の新憲法発布を記念して祝日とされたのである。このことは、小学校の教室で誰もが習ったはずだけれど、もう忘れている人も相当にいそうである。憲法と文化との感覚的な釣り合いの悪さが、どうやらそうさせるのだと思う。それにしても、戦後は「文化」がはやった。大流行だった。「文化住宅」やら「文化人」にはじまって「文化コンロ」や「文化包丁」にいたるまで、なんにでも「文化」がくっついていた。「文化」がブランドになっていたのである。東京のラジオ局「文化放送」(JOQR)という呼称も、その名残りだ。いまにして、あのころに喧伝された「文化」とは、いったい何だったのだろうかと思う。それにしても、いまの(!)ワープロソフト(EGWORD6.0)で「天長節」が一発で出たのには驚いた。「明治節」は出なかった。これが、いまの「文化」なのか……。(清水哲男)


November 02111998

 夜寒さの買物に行く近所かな

                           内田百鬼園

和九年(1934)の作。句作年代を知らないと、味わいが薄くなってしまう。煙草だろうか、薬だろうか。いずれにしても、ちょっとした買い物があって近所の店に出かけていく。もちろん、普段着のままである。句作年代が重要というのは、この普段着が「和服」だったことだ。かなり洋服が普及していたとはいっても、家の中でも洋服を着ている人はまだ少なかった。戦前の男も女も、くつろぐときは和服である。和服だから、夜道に出ると肩や胸、袖口のあたりにうそ寒さを感じる。これで素足に下駄だとすれば、なおさらのこと。ほんの「近所」までなのだけれど、季節の確実な移り行きが実感されるのである。もちろんコンビニなどなかった時代だから、店もはやく閉まってしまう。自然と急ぎ足になるので、いっそう夜風も身にしみるというわけだ。なんということもない句であるが、「買物」や「近所」という日常語が新鮮にひびいてくる。昭和初期の都会生活の機微が、さりげない詠みぶりのなかにも、よく認められる。『百鬼園俳句帖』(1934)所収。(清水哲男)




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