天気予報に雪だるまマーク。東京も朝夕は冷え込んできた。熱燗とおでんの季節也。




1998蟷エ11譛5譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

November 05111998

 団栗の己が落葉に埋れけり

                           渡辺水巴

語は「団栗(どんぐり)」。「落葉」も季語だが、こちらだと冬になってしまうので、この句の場合は秋の「団栗」だ。物の本によると、団栗はブナ科コナラ属の落葉高木である櫟(くぬぎ)の実のことをいうようだ。しかし一般的には、その他の楢(なら)や樫(かし)の実なども団栗と呼んできた。ま、それぞれの人がこれが団栗だと思っている実は、すべて団栗だということにしてもよいと思う。さて、この句は軽い句ではあるけれども、なかなかに読ませる。団栗というと、つい「ドングリコロコロ」の童謡みたいな様子をとらえてしまいがちなので、自分の葉っぱに埋もれている団栗の姿は新鮮にうつる。情景としてはありふれていても、このような句に仕立て上げたのは、やはり水巴の手柄というべきだろう。作句されたのは、明治三十九年(1906)。当時の水巴は東京・浅草に住んでいた。してみると、この頃の浅草には団栗のなる木もあったというわけだ。もしかすると、神社の社(もり)あたりかもしれない……。晩秋の都会の片隅での、これは微笑ましくも秀逸な発見の句である。『水巴句集』(1956)所収。(清水哲男)


November 04111998

 薮蔭や蔦もからまぬ唐辛子

                           萩原朔太郎

わずと知れた口語自由詩の先駆的詩人の句だ。朔太郎の詩観も俳句観も抒情性を根幹に据え、口語詩においても、調べを重視したことでよく知られている。残されている俳句は十七句。掲句は「遺構」と題された七句のうちの一句で、前書には「隠遁の情止みがたく、芭蕉を思うふこと切なり」とある。薮蔭の唐辛子(とうがらし)は詩人自身の境遇を暗示しており、真紅の唐辛子には程遠い弱々しげな色彩の「我」には、もはや蔦もからまないのである。このとき希求するのは、ただ世間から孤絶することのみ。すなわち、隠遁である。実際、晩年の朔太郎は自宅にこもりきりとなり、激しい人間嫌いになっていたようだ。辞世の句というと、案外と明るさを湛えた句が多いなかで、この朔太郎句は真っ暗である。闇である。言葉の本当の意味での「悲観」の句だ。持って生まれた詩的感受性を、最後まで引きずって生きた人という他はない。同じ「遺構」のなかに有名な「虹立つや人馬賑ふ空の上」の句もあり、一見明るくも読めるけれど、前書の「わが幻想の都市は空にあり」を思い合わせれば、やはり現世の闇をうたっている。『萩原朔太郎全集』(1978)所収。(清水哲男)


November 03111998

 父母の天長節の明治節

                           原岡昌女

屈の句だが、面白い。十一月三日は、もともとが明治天皇の誕生日で、明治時代には「天長節」と言った。国家によって「明治節」と定められたのは、昭和二年(1927)のことである。だから、作者の明治生まれの両親は今日を毎年「天長節」と呼ぶわけだが、昭和に物心のついた作者は、そのたびに「ああ明治節のことだ」と訂正しながら理解するという趣きだろう。その「明治節」も、昭和二十三年(1948)には「文化の日」と改められた。戦後の新憲法発布を記念して祝日とされたのである。このことは、小学校の教室で誰もが習ったはずだけれど、もう忘れている人も相当にいそうである。憲法と文化との感覚的な釣り合いの悪さが、どうやらそうさせるのだと思う。それにしても、戦後は「文化」がはやった。大流行だった。「文化住宅」やら「文化人」にはじまって「文化コンロ」や「文化包丁」にいたるまで、なんにでも「文化」がくっついていた。「文化」がブランドになっていたのである。東京のラジオ局「文化放送」(JOQR)という呼称も、その名残りだ。いまにして、あのころに喧伝された「文化」とは、いったい何だったのだろうかと思う。それにしても、いまの(!)ワープロソフト(EGWORD6.0)で「天長節」が一発で出たのには驚いた。「明治節」は出なかった。これが、いまの「文化」なのか……。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます