逆指名が許容されてからのドラフトは寒々しい。気象用語でdraftは隙間風のこと。




1998ソスN11ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 20111998

 着ぶくれし子に発掘のもの並ぶ

                           浜崎素粒子

今の遺跡発掘の成果には目覚ましいものがあるが、発掘現場を詠んだ句は珍しい。子供は好奇心のカタマリだから、北風の吹くなかでも、飽きもせずに大人たちの作業を目を輝かせて眺めているのだ。その周辺に、次々と土器のかけらやら木片やらが置かれてゆく。「さわっちゃ駄目だよ」くらいは、言われているだろう。そんな泥だらけのものに興味はないので、さわりたくもないが、子供はそのうちに、きっと何かスゴいものが出てくるのではないかと、いつまでもその場を離れない。そんな子供の姿に、作者は目を細めている。着ぶくれた子供に、昔の自分を重ね合わせていてるのかもしれない。ここで、「子供」と「発掘のもの」とは、同時的並列的に詠まれている。しかし、よく考えてみれば、「子供」は未来へとつながる時間を持ち、「発掘のもの」は過去へとさかのぼる時間を持つ。この時間的垂直性を、眼前に並列させたところが、この句の面白さだ。なんでもなさそうな光景が、かく詠まれることにより、かく深みのある作品となった。「俳句文芸」(1998年2月号)所載。(清水哲男)


November 19111998

 足袋つぐやノラともならず教師妻

                           杉田久女

女の、あまりにも有名な代表作。ノラはイプセン『人形の家』の女主人公の名前で、彼女は「では、さようなら」と言って夫ヘルメルのもとを去っていった。旧家(愛知県西加茂郡)の嫁として、夫の赴任先である小倉で二児をもうけ、善良だが古い考え方を持つ教師である夫に仕えていた久女は、破れた足袋を繕いながら、かく自嘲する。「暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失つている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、たゞ忍苦と諦観の道をどこまでもふみしめてゆく」。句もコメントも高浜虚子の俳誌「ホトトギス」誌上に発表されたものだが、こんなことを書かれては、いかに善良な夫でも、黙って見過ごすわけにはいかなかっただろう。親戚などの間でも、相当に物議をかもしたようだ。大正十年(1921)の作で、ときに久女三十二歳。たしかに当時の嫁の立場は、とくに久女のように東京で高等教育を受けた(東京高等師範学校付属高等女学校卒)女性には辛かったろう。その辛さはよく出ているが、しかし、人には「それを言ってはおしまい」ということもあるのだ。まことに悲しい名句である。(清水哲男)


November 18111998

 夕紅葉なにも雑へずかく窮る

                           竹中 宏

の人の句には、難しい漢字や読ませ方が多い。主宰誌の「翔臨」を読むときには、辞書を片手にということになる。しかし、よく読んでみると、たしかに難しい漢字や読ませ方が、作者の必然的な帰着であることが納得される。どうしても他の読みやすい漢字では代替できない境地が、そうさせているのだ。句の「雑へず」は「まじへず」と読ませ、「窮る」は「きわまる」と読む。つるべ落としの秋の日を背景に、紅葉が今日を最後とばかりに冷たくも鮮やかに映えている。このとき、「なにも雑へず」という言葉は雑木の紅葉を暗示しており、なにもまじえていない雑木という形容矛盾が、矛盾とは少しも感じられないほどに窮まっているという面白さ。やはり、これらの漢字が使われて、はじめて句は視覚的に凡庸を脱しているのである。作者は京都の人。京都には紅葉の名所は多いけれど、地元の人はそんなところをわざわざ訪ねたりはしない。この紅葉もそこらへんの紅葉、つまり雑なる場所の紅葉だろう。そこが、また好もしい。「俳句朝日」(1998年12月号)所載。(清水哲男)




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