北海道東北は大雪。東京のTVでも盛んに報道しています。お見舞い申し上げます。




1998蟷エ11譛21譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

November 21111998

 帰り花鶴折るうちに折り殺す

                           赤尾兜子

聞やテレビで、今年はしきりに「帰り花」が報道される。「帰り花」は「狂ひ花」とも言われて、異常気象のために、冬に咲くはずもない桜や桃や梨の花が咲くことを指す。いわゆる「小春日和」がながくつづいたりすることで、花たちも咲く季節を間違えてしまうというわけだ。この句には、平井照敏の解説がある。「『鶴折るうちに折り殺す』という表現から、われわれは、折り紙で鶴を折っているうちに、指先のこまかい動きに堪えきれなくなって、紙をまるめてしまうか、あるいは無器用に首を引き出すところでつい力を入れすぎて引き裂いてしまうかするところを想像するのだが、それを『鶴折るうちに折り殺す』ということばで表現するところに、兜子のいらだつ神経、あるいは残酷にまでたかぶる心理を感ずるのである。……」(『鑑賞現代俳句全集』第十巻・1981)。私もそうだが、たいていの人は「帰り花」に首をかしげながらも、どちらかというと明るい心持ちになるのが普通だろう。しかし、兜子は「狂ひ花」の季節に完全に苛立っている。このような鋭敏な感覚を指して、世間はしばしば「狂ひ花」のように見立てたりする。でも、この場合、狂っているのは、少なくとも兜子のほうではないのである。『歳華集』(1975)所収。(清水哲男)


November 20111998

 着ぶくれし子に発掘のもの並ぶ

                           浜崎素粒子

今の遺跡発掘の成果には目覚ましいものがあるが、発掘現場を詠んだ句は珍しい。子供は好奇心のカタマリだから、北風の吹くなかでも、飽きもせずに大人たちの作業を目を輝かせて眺めているのだ。その周辺に、次々と土器のかけらやら木片やらが置かれてゆく。「さわっちゃ駄目だよ」くらいは、言われているだろう。そんな泥だらけのものに興味はないので、さわりたくもないが、子供はそのうちに、きっと何かスゴいものが出てくるのではないかと、いつまでもその場を離れない。そんな子供の姿に、作者は目を細めている。着ぶくれた子供に、昔の自分を重ね合わせていてるのかもしれない。ここで、「子供」と「発掘のもの」とは、同時的並列的に詠まれている。しかし、よく考えてみれば、「子供」は未来へとつながる時間を持ち、「発掘のもの」は過去へとさかのぼる時間を持つ。この時間的垂直性を、眼前に並列させたところが、この句の面白さだ。なんでもなさそうな光景が、かく詠まれることにより、かく深みのある作品となった。「俳句文芸」(1998年2月号)所載。(清水哲男)


November 19111998

 足袋つぐやノラともならず教師妻

                           杉田久女

女の、あまりにも有名な代表作。ノラはイプセン『人形の家』の女主人公の名前で、彼女は「では、さようなら」と言って夫ヘルメルのもとを去っていった。旧家(愛知県西加茂郡)の嫁として、夫の赴任先である小倉で二児をもうけ、善良だが古い考え方を持つ教師である夫に仕えていた久女は、破れた足袋を繕いながら、かく自嘲する。「暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失つている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、たゞ忍苦と諦観の道をどこまでもふみしめてゆく」。句もコメントも高浜虚子の俳誌「ホトトギス」誌上に発表されたものだが、こんなことを書かれては、いかに善良な夫でも、黙って見過ごすわけにはいかなかっただろう。親戚などの間でも、相当に物議をかもしたようだ。大正十年(1921)の作で、ときに久女三十二歳。たしかに当時の嫁の立場は、とくに久女のように東京で高等教育を受けた(東京高等師範学校付属高等女学校卒)女性には辛かったろう。その辛さはよく出ているが、しかし、人には「それを言ってはおしまい」ということもあるのだ。まことに悲しい名句である。(清水哲男)




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