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November 24111998

 あやとりのエッフェル塔も冬に入る

                           有馬朗人

ういえば、あやとり遊びで作る形には名前がついていた。地方によって異なるのだろうが、「川」だとか「橋」だとか「帚(ほうき)」だとか……。「エッフェル塔」は初耳だが、形状から推察して「帚」のように思える。あるいは、作者の創作かもしれない。いずれにしても作者は、あやとりの形から連想して、本物のパリのエッフェル塔を思っている。どんよりと雲のたれ込めたパリの冬が、身辺にはじまったように感じている。もとより、連想の源は、あやとりが寒い時期の室内での遊びであることにある。外国との交流が頻繁な作者ならではの句境だろう。作者には、一度だけお目にかかった。東大学長に選出される一週間前くらいだったろうか。ラーメン屋に毛の生えたような麹町の小さな店に、友人がアルコールの勢いで「呼び出した」という格好だった。彼は編集者として、何冊か有馬さんの本を作ったことがある。三時間ほど、にこやかに応接してくださった。話の中身は省略するが、一週間後にまたぞろ私がひとりでその店に出かけていくと、ちょうどテレビのニュースが有馬さんの学長決定を告げているところだった。それを見ていた店のお兄さんが叫んだものである。「あっ、このヒト、あのオジサンだっ」。『立志』(1998)所収。(清水哲男)

[読者から教えていただきました。エッフェル塔の作り方には何通りかあるようです]もとはしみほさんの方法。小さいころに母から習ったもので「東京タワー」と言っていました。つくった梯子を顔の前にもっていき、ちょうど真ん中の交点になったところをくちびるで挟んで、両の指からひもがはずれないように気をつけながら両手をそっと下にさげる。これだけです(挟んだ所が塔の頂上になります)。作った当人には、せっかくの作品がちゃんと見えないのが欠点ですが、子どもたちに披露するにはもってこいです。 鈴木麻理さんの方法。こちらは口を使いません。鈴木志郎康さんが、以上の二通りの完成写真と、もう一つ、インディアン方式のタワーの写真を撮ってくれました。どうぞ、ご覧ください。みなさん、ありがとうございました。現・文部大臣である作者が詠んだエッフェル塔は、果たしてどれなのでしょうか。チャンスがあったら、うかがってみます。


May 2451999

 大阪も梅田の地下の冷しそば

                           有馬朗人

だ文部大臣ではなかった1991年の句。句集だけを開いても、とにかく国内外の旅の多い人だ。外国に取材した俳句も数多い。が、北欧だとかイスラエルだとかと私の未知の土地での作品は、そういうものかと思うだけで、よくはわからない。「神学者西瓜の種を吐きあひて」(イスラエル七句のうち)。そんななかで、掲句のような世界に出会うとホッとする。よくわかる。梅田近辺には大きなホテルがいくつかあるから、たぶん作者はそこに宿泊したのだ。公務での出張だろう。東京行きの新幹線を利用するには、梅田の駅(大阪駅)から新大阪駅まで電車に乗る必要がある。しかし、新幹線の発車時刻までには少々時間があるので、あらかじめ腹拵えをしておこうと、広い梅田の地下街のとある店で「冷しそば」を注文したというのである。「冷しそば」は大阪名物でも何でもなく、とりあえずすぐに出てくるものを、そそくさと食べるというだけのこと。「大阪も」と大きく振り出して、ありふれた「冷しそば」に行き着き、作者は半ば苦笑している。出張のあわただしい気分を、食べ物を通じてとらえてみせたところが面白い。『立志』(1998)所収。(清水哲男)


March 0732005

 春や春まづはぶつかけうどんかな

                           有馬朗人

年の冬は長い。「春や春」には、まだとても遠そうな日がつづいている。誰かの短歌に「待っていればいずれは来るものを、人は何故わざわざ春を探しにいったりするのだろうか」、そんな趣旨のものがあった。この句をここに載せる私の気持ちも、やはり春を待望しているからなのだ。ああ待ち遠しい、寒いのはもうご免だ。掲句では、すでに春爛漫。外出先ですっかり嬉しくなって、なにはともあれ「ぶつかけうどん」で腹ごしらえをすることにした。うどんにもいろいろな種類があるけれど、この場合は「ぶつかけ」という言葉の勢いが気に入って注文したのだろう。「ぶつかけうどん」の味が好きというよりも、言葉が気分にマッチしての選択である。大袈裟に言えば時の勢い、別の何かを食べたくて店に入ったつもりが、メニューに並んだ料理名を見ているうちにふっと気が変わることはよくある。作者ははじめから「ぶつかけ」に決めていたのかもしれないが、いずれにしても言葉に惹かれたのには違いあるまい。食べるときにタレをぶっかけるとはいっても、それは言葉の綾というもので、実際には飛び散らないように静かにかける。お上品にも、いちいち別皿のタレにうどんをからめて食べるのは面倒だ。そこで、「えいっ」とばかりにぶっかける気持ちでかけるから「ぶつかけうどん」。東京辺りでも、まだまだ「ぶつかけ」ならぬ単なる「かけうどん」の似合う日がつづきそうだ(笑)。『不稀』(2005)所収。(清水哲男)


September 1092006

 秋の日が終る抽斗をしめるように

                           有馬朗人

き出しがなめらかに入るその感触は、気持のよいものです。扉がぴたりとはまったときや、螺子が寸分の狂いもなく締められたときと同じ感覚です。そのような感触は、あたまの奥の方がすっと感じられ、それはたしかに秋の、乾いた空気の手触りにつながるものがあります。抽斗は「ひきだし」と読みます。「引き出し」と書くと、これは単に動作を表しますが、「抽斗」のほうは、「斗」がいれものを意味しますから、入れ物をひきだすというところまでを意味し、より深い語になっています。「秋の日」、「終る」、「抽斗」と同じ乾き方の語が続いたあとは、やはり「閉じる」よりもさわやかな、「しめる」が選ばれてよいと思います。抽斗をしめることによって、中に閉じ込められたものは、おそらくその日一日のできごとであるのでしょう。しめるときの振る舞いによって、その日がどのようなものであったのかが想像できます。怒りのちからで押し込むようにしめられたのか、涙とともに倒れこむようにしめられたのか。箱の中で、逃れようもなく過ごしてきた一日は、どのようなものであれ、時が来れば空はふさがれ、外からかたく鍵がかけられます。掲句の抽斗は、激することなく、静かにしめられたようです。とくに大きな喜びがあったわけではないけれども、いつものなんでもない、それだけに大切な、小箱のような一日であったのでしょう。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


May 2352008

 のみとりこ存在論を枕頭に

                           有馬朗人

取粉の記憶はかすかにある。丸い太鼓型の缶の真中をパフパフと指でへこませて粉を出す。蚤はそこら中にいた。犬からも猫からもぴょんぴょん跳ねるところがよく見えた。犬を洗うときは尻尾から洗っていってはいけない。水を逃れて頭の方に移動した蚤が最後は耳の中に入り込み犬は狂い死ぬ。かならず頭から洗うんだぞ。そうすれば蚤は尻尾からぴょんぴょんと逃げていくと父は言った。父は獣医だったので、この恐ろしい話を僕は信じ、洗う順序を取り違えないよう緊張して実行したが、ほんとうだったのだろうか。蚤取粉を傍らに「存在」について書を読み考えている。蚤というおぞましくも微小なる「存在」と存在論の、アイロニカルだがむしろ俗なオチのつくつながりよりも、アカデミズムの中に没頭している人間が蚤と格闘しているという生活の中の場面が面白い。西田幾多郎も湯川秀樹も蚤取粉を枕頭に置いてたんだろうな、きっと。『花神コレクション・有馬朗人』(2002)所収。(今井 聖)


April 0842010

 羽のある蛇を描きて日永かな

                           有馬朗人

野火、メキシコと題された中の一句。羽のある蛇はアステカの遺跡の壁画に残された絵なのだろうか。幾何学模様がエキゾチックなリズムとともに描き出されていることだろう。こうして「日永」という季語を合わさってみるとのんびりした春の季感を超えて、もっと長い長い時間へ巻き戻されてゆくようだ。羽のある蛇は人間が自分と動物・植物を分かつことなく畏敬の念をもって交わっていた時代、身近にいる蛇が空中を飛ぶとき羽が見えたのかもしれない。描かれた壁画を見ているのだろうが、「蛇を描きて」という言葉に眼の前で彩色しているのを眺めている気分になる。きっと作者は画を眺めながらワープしているのだろう。この句集ではそんな時間的混沌が季語と合わさって不思議な世界を紡ぎだしている。「春の雨悪魔の舌をぬらしけり」これも寺院の屋根にある彫像なのだろうが、おどろおどろしく長い舌を出して耳まで裂けた口でにやっと笑う悪魔の顔が春の雨の情緒を怪しいものに塗り替えている。『鵬翼』(2009)所収。(三宅やよい)


August 0782015

 山深し語尾しつかりと三光鳥

                           有馬朗人

き声が独特で「ツキ(月)・ヒー(日)・ホシ(星)、ホイホイホイ」と聞こえるので三光鳥と名付けられた。ホイホイホイが馬を追う様にも聞こえ、別に馬追鳥という名もある。一般に鳥類ではオスが目立つ色彩や形態をとるが三光鳥ではくちばしと目の周囲がコバルト色でとても長い尾羽を引いている。夏鳥として東南アジアから日本に渡来してくる。夏休みは海へ山へと出掛けて何時もと違う生活が多くなる。そんないっ時、普段の人間関係から離れて自然に目を遣り耳を貸していると珍しい鳴き声が聞こえてきた。目の先には深い山、佇んでいるとまたしても遠くより「月日星、ホイホイホイ」の語尾ホイホイホイの最後まで聞き取れる澄んだ鳴き声がした。自分がめったに無い非日常の深山幽谷に立っているのだと思うと身が洗われたような気がするのだった。人間たまには非日常に身を置くのも良いものだ。「俳句」(2014年8月号)所載。(藤嶋 務)




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