中国国歌の難しさ。メロディーは好きだが、なかなか覚えられない。なぜだろうか。




1998蟷エ11譛27譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

November 27111998

 月夜しぐれ銀婚の銀降るように

                           佐藤鬼房

婚の日の月夜に、まさかの時雨れである。その雨の糸を銀と見立てた、まことに美しい抒情句だ。このように、俳句の得意の一つは、境涯をうたうことにある。それも、人生や生活の来し方の余計なあれやこれやを可能なかぎり削り落として、辿り着いた純なる心持ちをうたうのである。このあたりが現代詩などとはまったく違った方法であり、俳句が好きになるかどうかも、一つはこうした境涯句に賛成できるか否かにかかっていると思う。現代詩とて、もとより境涯をうたうことはある。しかし、俳人と大きく異なるのは、境涯を辿り着いた地点とは見ないところだ。銀婚であれ何であれ、それらを人生や生活のプロセスとしてつかまえようとする。したがって、純なる心持ちなどは信じない。仮にそういう心持ちがあるにしても、それを極力疑おうとする。今年出た詩集に、多田智満子が境涯を書いたと言える『川のほとりに』があるが、読んでいると俳人の方法とのとてつもない落差を感じてしまう。彼女を誘ういわば「死神」は「死ぬのもなかなかいいものだよ」などと、平気で言うのである。明らかに、境涯をプロセスとして捉えている書き方だ。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


November 26111998

 焼跡を一番電車通りそむ

                           清崎敏郎

の早朝(「火事」は冬の季語)。昨夜の火事はすっかりおさまっているが、水浸しの焼け跡からはまだ焦げ臭い匂いがただよってくる。火事騒ぎで眠れぬ夜を過ごした作者は、気になって、夜明けとともに出かけてきたのだろう。焼けたのは、作者とはいささか関わりのあった人の住居か店舗かもしれない。他にも、様子を見に来た人が何人か黙ってたたずんでいる。そこへ、いつもの朝と変わりなく、一番電車がガタガタと音を立ててやって来、とくにスピードをゆるめるでもなく行ってしまった。市街電車だ。淡々とした客観描写の句だが、それだけに都会生活の哀愁が色濃く染みわたってくる。電車は、つまり都会を構成するシステムは、焼けだされた人のことなど構ってはいられないのだ。定まった時刻に、いつもと変わらぬスピードで走らなければならないのである。しかし、これを非情と作者は見ていない。そのようなシステムに従って生きている自己を、一番電車を見送りながらしっかりと再確認したのである。『東葛飾』(1977)所収。(清水哲男)


November 25111998

 手袋を脱いで握りし別れかな

                           川口松太郎

同士の別れだ。いろいろな場面が思い浮かぶが、たとえば遠くに赴任地が決まり旅立っていく親友との駅頭の別れなどである。日頃は「手袋の手を振る軽き別れあり」(池内友次郎)程度の挨拶であったのが、もうこれからは気軽に会うこともできないとなると、お互いがごく自然に手袋を脱いで固い握手をかわすことになる。力をこめて相手の手を握り、そのことで変わらぬ友情を誓いあい、伝えあう。このような場合に手袋を脱ぐのはごく自然なふるまいだし、礼節の初歩みたいなものだけれど、脱ぐべきか脱がざるべきか、判断に迷うことが日常には多い。とくに、女性の場合は迷うのではなかろうか。映画で見る貴婦人などは、まず手袋を脱がない。それは貴婦人だからであって、貴婦人でない現代女性は、いったい着脱の基準をどのあたりに定めているのだろう。山口波津女に「花を買ふ手袋のままそれを指し」という句がある。こんな場面を句にしたということは、この行為が自分の価値基準に照らしてノーマルではないからである。本来ならば、手袋を脱いで店の人に指示すべきであったのだ。おタカくとまっているように思われたかもしれないという危惧の念と、急いで花を求めなければならなかった事情との間で、作者の心はいつまでも揺れ動いている。(清水哲男)




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