セガ「ドリームキャスト」に徹夜組。私も関心はあるが、他に楽しみはないのかねえ。




1998蟷エ11譛28譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

November 28111998

 梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬

                           飯田龍太

斐は盆地(甲府盆地)だから、夏はひどく暑く、冬の底冷えは厳しい。その意味で、私の知っている土地で言うと、京都の気候に似ている。似ているからといって、しかし、この句を「京の冬」とやっても通用しない。京都には、「真赤ぞ」の「ぞ」を受けとめるだけの地力に欠けているからである。やはり、作者のよく知る「甲斐の冬」でなければならないのだ。甲斐には、作者渾身の「ぞ」を受けとめて跳ね返すほどのパワーがある。このような「ぞ」と釣り合う土地は、少なくとも現代の大都市にはないだろう。さて、この句は何を言いたいのか。わからなくて何度も舌頭にころがしているうちに、深い郷土愛に根ざした自己激励の句だと思えてきた。「ぞ」は甲斐の国に向けられていると同時に、作者自身にも向けられている。郷土に向けて叫ばれているときの真っ赤な種は作者自身であり、作者に向けられているときのそれは郷土の守護霊のようなものだ。そしてこのとき、作者の眼前に真っ赤な種があるわけではないだろう。厳寒の郷土にあっての身震いするような志が、おのずから引き寄せた鮮やかなイメージなのである。(清水哲男)


November 27111998

 月夜しぐれ銀婚の銀降るように

                           佐藤鬼房

婚の日の月夜に、まさかの時雨れである。その雨の糸を銀と見立てた、まことに美しい抒情句だ。このように、俳句の得意の一つは、境涯をうたうことにある。それも、人生や生活の来し方の余計なあれやこれやを可能なかぎり削り落として、辿り着いた純なる心持ちをうたうのである。このあたりが現代詩などとはまったく違った方法であり、俳句が好きになるかどうかも、一つはこうした境涯句に賛成できるか否かにかかっていると思う。現代詩とて、もとより境涯をうたうことはある。しかし、俳人と大きく異なるのは、境涯を辿り着いた地点とは見ないところだ。銀婚であれ何であれ、それらを人生や生活のプロセスとしてつかまえようとする。したがって、純なる心持ちなどは信じない。仮にそういう心持ちがあるにしても、それを極力疑おうとする。今年出た詩集に、多田智満子が境涯を書いたと言える『川のほとりに』があるが、読んでいると俳人の方法とのとてつもない落差を感じてしまう。彼女を誘ういわば「死神」は「死ぬのもなかなかいいものだよ」などと、平気で言うのである。明らかに、境涯をプロセスとして捉えている書き方だ。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


November 26111998

 焼跡を一番電車通りそむ

                           清崎敏郎

の早朝(「火事」は冬の季語)。昨夜の火事はすっかりおさまっているが、水浸しの焼け跡からはまだ焦げ臭い匂いがただよってくる。火事騒ぎで眠れぬ夜を過ごした作者は、気になって、夜明けとともに出かけてきたのだろう。焼けたのは、作者とはいささか関わりのあった人の住居か店舗かもしれない。他にも、様子を見に来た人が何人か黙ってたたずんでいる。そこへ、いつもの朝と変わりなく、一番電車がガタガタと音を立ててやって来、とくにスピードをゆるめるでもなく行ってしまった。市街電車だ。淡々とした客観描写の句だが、それだけに都会生活の哀愁が色濃く染みわたってくる。電車は、つまり都会を構成するシステムは、焼けだされた人のことなど構ってはいられないのだ。定まった時刻に、いつもと変わらぬスピードで走らなければならないのである。しかし、これを非情と作者は見ていない。そのようなシステムに従って生きている自己を、一番電車を見送りながらしっかりと再確認したのである。『東葛飾』(1977)所収。(清水哲男)




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