コンタクトレンズを無くした。大捜索を行うも未発見。一万円札を落としたのと同じ。




1998ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01121998

 師走何ぢや我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

治40年(1907)12月の作。尾崎紅葉はすでに亡くなっていたが、紅葉ばりの談林体を思わせる句だ。日頃は落ち着いている僧侶(師)すらもが、町を走るというあわただしい季節。俗人は金勘定に追われ、やたらに忙しがっている。そんなものが「何ぢゃ」らほいと、作者はいささか突っ張った感じで、風狂の気のおもむくままに遊んでしまおうとしている。世間に背を向ける無理は承知で、無理を通そうというのだ。こうなると、風狂の道もラクじゃないのである。決して上手な句ではないし、はっきり言えば下手糞に近いけれど、当時の文人趣味をうかがうには貴重な資料だと思う。とにかく、現代の小説家などとはエラい違いだ。「清貧」だの「超俗」だのという精神が具体的現実的に生きていたことが、この句によって証明されている。同じような発想は漢詩にもありそうだが、露伴にしてみれば類想なんぞもヘのカッパで、実際に酒を飲む前から、かなりの上機嫌で俳諧に遊んでしまっている。すなわち「超俗」。実に、私などには羨ましい心持ちがする。「あゝ降つたる雪哉詩かな酒もがな」と、これまた当時の露伴の俳諧趣味を代表すると見てよい句であろう。(清水哲男)


November 30111998

 死にたれば人来て大根煮きはじむ

                           下村槐太

かが亡くなると、近所の主婦たちが総出で炊き出しをはじめる。今の都会ではすっかりすたれてしまった風習だが、冠婚葬祭に手助けをするのは、昔の近所づきあいの原点であった。たとえ「村八分」にした家でも、葬いのときだけは別であったという。下村槐太(1910-66)は、大阪の人。大阪は、こういうことには特にうるさかった土地柄だ。ここで、槐太と死者との縁の深さは知らないが、そんな風習を突き放して詠んでいる。俗事に距離を置いている。はっきり言って、「くそくらえ」と冷笑している。子供の頃に私が体験した範囲で書いておけば、弔いの家の台所という場所は総じて明るかったし、女たちは生き生きと活躍していた。当たり前である。冠婚葬祭のときだけは、家庭のルールなど無視してもよかったのだから……。主婦にとってはこの機会を提供してくれた相手が、死者であろうが何であろうが、いっこうに構わないのであった。一方、槐太はそうした活気を茫然と眺めている。俗事のタフさにたじろいでいて、まるで生と死の輪廻の外に立っている人のようだ。人間、タフでなければ生きてはいけない。しかし、タフな人間には、いわば天才的な鈍感さも要求されるということだ。そして、槐太自身は、貧窮のうちに不遇な死に方をした。このときにも、大根が盛大に煮かれたかどうかは、もとより私の知るところではない。『下村槐太全句集』(1977)所収(清水哲男)


November 29111998

 冬星照らすレグホンの胸嫁寝しや

                           香西照雄

祖「腸詰俳句」の中村草田男に師事した人ならではの作品だ。「腸詰俳句」の命名は山本健吉によるものだが、とにかく俳句という小さな詩型にいろいろなものをギュウギュウ詰め込むことをもって特長とする。この句でいえば、たいていの俳人は下五の「嫁寝しや」までを入れることは考えない。考えついたとしても、放棄する。放棄することによって、すらりとした美しい句の姿ができるからだ。そこらへんを草田男は、たとえ姿はきれいじゃなくても、言いたいことは言わなければならぬと突進した。作者もまた、同じ道を行った。戦後も六年ほど過ぎた寒い夜の句だ。レグホンは鶏の種類で、この場合は「白色レグホン」だろう。その純白の胸が冬空の下の鶏小屋にうっすらと見えている様子は、私も何度も見たことがあり、一種の寂寥感をかき立ててくる光景だった。子供だった私には、人間の女性の胸を思わせるという連想までにはいたらなかったけれど、わけもなく切ない気持ちになったことだけは覚えている。作者は、鶏も眠ってしまったこの時間に、我が妻も含めて世間の「嫁」たちは、忙しい家事から解放されて、やすらかに床につけただろうか。と、社会的な弱者でしかなかったすべての「嫁」たちに対して、ヒューマンな挨拶を送っている。『対話』(1964)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます