1998N12句

December 01121998

 師走何ぢや我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

治40年(1907)12月の作。尾崎紅葉はすでに亡くなっていたが、紅葉ばりの談林体を思わせる句だ。日頃は落ち着いている僧侶(師)すらもが、町を走るというあわただしい季節。俗人は金勘定に追われ、やたらに忙しがっている。そんなものが「何ぢゃ」らほいと、作者はいささか突っ張った感じで、風狂の気のおもむくままに遊んでしまおうとしている。世間に背を向ける無理は承知で、無理を通そうというのだ。こうなると、風狂の道もラクじゃないのである。決して上手な句ではないし、はっきり言えば下手糞に近いけれど、当時の文人趣味をうかがうには貴重な資料だと思う。とにかく、現代の小説家などとはエラい違いだ。「清貧」だの「超俗」だのという精神が具体的現実的に生きていたことが、この句によって証明されている。同じような発想は漢詩にもありそうだが、露伴にしてみれば類想なんぞもヘのカッパで、実際に酒を飲む前から、かなりの上機嫌で俳諧に遊んでしまっている。すなわち「超俗」。実に、私などには羨ましい心持ちがする。「あゝ降つたる雪哉詩かな酒もがな」と、これまた当時の露伴の俳諧趣味を代表すると見てよい句であろう。(清水哲男)


December 02121998

 窓の雪女体にて湯をあふれしむ

                           桂 信子

者三十代の句。女盛りの肉体が、浴槽の湯をざあっと溢れさせている。外は雪だ。この暖寒の対比からいやでも見えてくるのは、作者の自己の肉体への執着ぶりだろう。男ならば「ああ、ゴクラク極楽……」とでも流してしまう入浴の気分を、女は身体全体でいわば本能的に流すまいと踏み止まる。男は身体を風流に流せるが、女は決して流せないと言い換えてもよい。このようなときに、女は存在するが、男は存在しないと言っても、言い過ぎではないだろう。たぶん女は、片時も自分に肉体があることを忘れては生きられないのである。かつて清岡卓行は「きみに肉体があるとはふしぎだ」というフレーズを書いたが、これなどは男の身体感を代表する詩句なのであって、この詩の美しさは女には届かないだろう。「ふしぎ」と言われるほうが不思議だと思うはずだからだ。女の肉体への執心は、自己愛と言うのとも、ちょっと違うような気がする。はじめに肉体ありき。そういう前提から、世の中との交流も自己との対話も出発するのではあるまいか。「女盛り」と書いたが、女にはおそらく自分の肉体の盛りがわかるのであり、女性の読者に伝えておきたいが、男はそれこそ不思議なことに、そういうことは皆目わからずに生きてしまうのである。『女身』(1955)所収。(清水哲男)


December 03121998

 寒柝や長き手紙の封をせり

                           岡田史乃

柝(かんたく)は、寒い冬の夜に打ちならされる拍子木の音のこと。「火の用心」と声を上げながらの拍子木の音は、どこか物悲しさを感じさせる。長い手紙を書き終えてほっと安堵した作者の耳に、遠くの方から寒柝が聞こえてきた。しっかりと封をしながら、時計を見るまでもなく、夜も相当に更けてきたことを知るのである。長い手紙なのだから、時間を忘れて書くことに没頭していた。書き終えて、ふと我に帰った状態を巧みに捉えた句だ。そして、この情感を伝える季節としては、やはり冬がふさわしい。他の季節では、きっぱりと書き終えた気分が曖昧になってしまうからだ。余談になるが、昨今の東京の出火原因は、圧倒的に放火が多いのだそうだ。三鷹市あたりでは、昼の放火も増えてきたという。ならば、人はなぜ火を放つのか。有名な「八百屋お七」事件以来のこの謎にいどんだのが、多田道太郎さんの『変身放火論』(講談社・1998)である。これからの夜長の読み物として、お薦めしておきたい。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


December 04121998

 日のあたる石にさはればつめたさよ

                           正岡子規

の季語「冷たし」は寒さを表す言葉の一つであるが、同じく季語である「寒し」に比べると、皮膚感覚に重点がかけられている。より即物的な感覚を表す。この句は、そういうことを言っている。教科書に載っているかどうかは知らないが、小学生などにそういうことを教えるためには格好の教材だろう。日があたっているというのだから、少しは寒気もゆるんでいる。しかし、何げなく触れてみた石は、ハッとするほどに冷たいのだった。誰もがよく体験することだけれど、そこを逃さずにスケッチしたところは、やはり子規ならではと言うべきか。漢字と平仮名の配合もよい。「つめたさよ」のほうが、漢字にするよりも本当に触った実感が滲み出てくる。そしてこのとき、なんでもない路傍の石がにわかに存在感を増すのである。ずしりと重くなるのだ。この「冷たし」が心理的に拡大されると、たとえば「あの人は冷たい」などという用法に発展する。すなわち「あの人」の存在感が、にわかに不人情の一面からクローズアップされるわけだ。こんなことなら「日のあたる」暖かそうな「あの人」に、触らなければよかったのに……。(清水哲男)


December 05121998

 日光写真片頬ぬくきおもひごと

                           糸 大八

光写真は冬の季語。「青写真」ともいい、子供の冬の遊び。漫画のキャラクターなどが黒白で印刷されたネガに印画紙を重ね、その上にガラス板を置き、日光に当てて焼き付ける。水洗いすると、絵が浮き上がってくる種類のものもあった。いまではまったく廃れてしまい、新しい歳時記では削除されている。私の子供の頃の少年雑誌の新年号には、必ず付録についていて、楽しみだった。ただし、ネガの枚数よりも印画紙が少なく、どれを焼き付けるかをセレクトするのが大変だった。ま、それを考えるのも、楽しみの一つだったけれど……。ところで、この句の子供は、かなり大人びているようだ。低い冬の日に片頬を照らされながら、完全に日光写真に没入してはいず、何か他のことを思っている。かすかに芽生えはじめた恋心にとらわれていると読んだのだが、そうなると、この少年にとっての日光写真遊びも、この冬あたりで終わるということだ。いつまでも子供っぽくはいられない少年のありようが、的確に捉えられている。どんなに熱中している遊びでも、いつかは終わる。それっきりで、生涯思いださない遊びもあるだろう。(清水哲男)


December 06121998

 おでん煮えさまざまの顔通りけり

                           波多野爽波

台のおでん屋。あそこは一人で座ると、けっこう所在ないものだ。テレビドラマでも映画でもないのだから、人生の達人みたいな格好の良いおじさんが屋台を引いてくるわけではない。だから、おじさんと人生論などかわすでもない時が過ぎていくだけだ。したがって客としても、そんなおじさんをじろじろ眺めているわけにもいかず、必然的に、目のやり場としては、屋台の周辺を通っていく見知らぬ誰彼の方に定まるということになる。と、まさに句のように「さまざまな顔が通り」すぎていく。それがどうしたということもなく、チクワやハンペンをもそもそと食べ、なぜかアルコールの薄い感じのする酒をすすりながら、「さまざまな顔」をぼんやりと見送っているという次第。句の舞台はわからないが、爽波は京都在住だったので、勝手に見当をつければ出町柳あたりだろうか。出町柳には、私の学生時代に毎晩屋台を引いてくる「おばさん」がいた。安かったのでよく寄ったのだが、彼女は学生と知ると説教をはじめるタイプで、辟易した思い出がある。「悪い女にひっかからないように」というのが、彼女得意の説教のテーマであり、辟易はしていたが、おかげさまで今日まではひっかからないで(多分……)すんでいるようだ。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


December 07121998

 金網にボールがはまり冬紅葉

                           川崎展宏

ニスのボールかもしれないが、この場合は野球のボールのほうが面白い。もちろん、草野球だ。軟式のボールは、ときにキャッチャー・マスクにはまってしまうほど変形しやすいのである。折しも金網を直撃したボールが、そのまま落ちてこなくなった。追いかけた野手が、茫然と金網を見上げている。そのうちに、他のメンバーも一人、二人と寄ってくる。相手方の何人かも駆け寄ってきて、ついには審判も含めた全員が金網を見上げるという事態になる。手をかけてゆさぶってみるのだが、はまり込んだボールは一向に落ちてきそうもない。なかには、グラブをぶつける奴もいる。しばらく、ゲームは中断である。と、それまで試合に熱中していて気がつかなかったのだが、場外のあちこちには、まだ美しく紅葉した木々の葉が残っているという情景。にわかに、初冬のひんやりした大気が、ほてった身体に染み込んでくるようである。そして、ナインはそれぞれに、もう野球ができなくなる季節の訪れが近いことを感じるのでもある。このボールは、落ちてきたのだろうか。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


December 08121998

 短日や塀乗り越ゆる生徒また

                           森田 峠

者は高校教師だったから「教室の寒く生徒ら笑はざり」など、生徒との交流を書いた作品が多い。この句は、下校時間が過ぎて校門が閉められた後の情景だろう。職員室から見ていると、何人かの生徒がバラバラッと塀を乗り越えていく様子が目に入った。短日ゆえに、彼らはほとんど影でしかない。が、教師には「また、アイツらだな」と、すぐにわかってしまうのである。規則破りの常連である彼らに、しかし作者は親愛の情すら抱いているようだ。いたずらっ子ほど記憶に残るとは、どんな教師も述懐するところだが、その現場においても「たまらない奴らだ」と思いながらも、句のように既に半分は許してしまっている。昭和28年(1953)の句。思い返せば、この年の私はまさに高校一年生で、しばしば塀を乗り越えるほうの生徒だった。が、句とは事情が大きく異なっていて、まだ明るい時間に学校から脱出していた。というのも、生徒会が開かれる日は、成立定数を確保するために、あろうことか生徒会の役員が自治会活動に不熱心な生徒を帰さないようにと、校門を閉じるのが常だったからである。校門を閉めたメンバーのほとんどは「立川高校共産党細胞」に所属していたと思われる。「反米愛国」が、我が生徒会の基調であった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


December 09121998

 風邪衾かすかに重し吾子が踏む

                           能村登四郎

具の「衾(ふすま)」には特殊なものもあるが、この場合は普通の掛け布団と解してよいだろう。作者は風邪で寝込んでいる。高熱のなかでうつらうつらしていると、かすかに布団が重くなったような気がした。どうしてだろうか。少し考えて、ああきっと子供がいま裾を踏んでいったからだろうと納得している。高熱ゆえの判断力の低下である。誰にでも、似たような体験はあるだろう。……と、この一句からではここまでしか読めないが、実はこのときの作者に子供などいなかったことを知ると、俄然、句は違う色合いを帯びてくる。子供はいたのだが、六歳のときに病没している。死に別れている。したがって、子供が布団を踏むことなどはありえないわけだ。でも、作者にはそう思えた。あくまでも高熱ゆえの幻想なのだけれど、この幻想からわき出てくる悲哀の感情は読む者の心にずしりと重くのしかかるようだ。このような句を前にすると、俳句を読むとはどういうことかと考えさせられてしまう。作者の人生、作者の境遇を知らないと読み違えることがあるからだ。テキストだけでは成立しない句も含めて、俳句は芒洋として歩いてきたというしかない。『咀嚼音』所収。(清水哲男)


December 10121998

 冬の街戞々とゆき恋もなし

                           藤田湘子

て、この見慣れない漢字「戞(かつ)」とは何を意味するのだろうか。さっそく漢和辞典を引いてみたら、「戞」は「戈(ほこ)」のことであり、字解としては「戈で首を切る」意とあった。なるほど、戈の上に頭部が乗っかっている。で、「戞々」は「かつかつ」と発音する。馬のヒヅメの音などを表現するのに使われていた言葉らしく、この場合は人の足音に流用されている。このときの作者は、まだ二十代。あえて難しい漢字をもってきたのは、あながち若気のいたりからでもあるまいと読んだ。平板に「かつかつと」とやったのでは、どうにもシマラない。青年に特有の昂然たる気合いが、いまひとつ表現できない。だから「戞々と」と漢語を使用することで、そのあたりの気分を出したかったのだろう。したがって「恋もなし」とは言っているが、これはほとんどつけたりである。主眼は、ひとりの若者が孤独などものともせずに己れの信じる道を行くのだという「述志の詩」なのだ。冬の街だからこそ、寒気にさからうように昂然と眉を上げて歩いていくというわけだ。その意気込みが「戞々」に込められている。やはり「戞々」でなければならないのだった。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


December 11121998

 一枚は綿の片寄る干布団

                           飯島晴子

当てをすれば、そういうことにはならない。頭ではわかっていても、ついついどうにもしないままに、月日が過ぎていく。誰にも、こういうことの一つや二つはあるのではなかろうか。干すたびに、綿が片寄ってしまう一枚の布団。針と糸でちょっと止めてやれば片寄ることもないのに、作者はそれをしないのである。面倒臭いという思いからだろうが、しかし、干すたびに綿をととのえるほうが、結局はよほど面倒である。理屈はそうなるのだけれど、やはり作者は干すたびに綿を整えるほうを選んでいる。実は、私の一枚の掛け布団もそういう状態になっているので、この句を見つけたときには笑ってしまった。この布団を私の物臭の象徴とすれば、他にもぞろぞろと類似の事柄が想起される。ジーパンのポケットのなかで、ほつれた糸がこんがらかったままになっている。これもその一つだ。キーホルダーの鎖がいつも引っ掛かって、取りにくいったらありゃしない。ハサミで糸を切ってしまえば、どんなに楽になるだろう。でも、それをしないままに過ごしている。即物的な事柄でもこれだから、心のなかの様々なこんがらがりは、日々「増殖」していくというわけだ。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


December 12121998

 老木のふっと木の葉を離しけり

                           大串 章

句に「ふと」という言葉はいらない。「ふと」が俳句なのだから……。そう言ったのは上田五千石だったが、その通りだろう。しかし、この場合には「ふっと」が必要だ。「ふっと」の主体は俳人ではなくて、老木だからである。老木から一枚の木の葉が落ちてくる様子に、作者は「ふと」この老木が人間のように思え、彼が「ふっと」葉を手離したように見えたのである。実によく「ふっと」が利いている。「ふっと(ふと)」は「不図」であり、図(はか)らずもということだ。老木は、おのれの意志とはほぼ無関係に、図らずも葉を離してしまった。必死に離すまいとしていたのでもなく、離してもよいと思っていたわけでもない。「ふっと」としか言いようのない心持ちのなかで、葉は枝を離れていったのだ。作者が「ふと」老木を擬人化した効果も、ここで見事に出ている。私などが思うのは、人間も齢を重ねるに連れて、このように「ふっと」手離してしまうものが確実にあるだろうなということだ。一度離した木の葉は、もう二度と身にはつかない。戻ってはこないのである。そういうことは知りながら、やはり「ふっと」手離してしまうのだ。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


December 13121998

 煤籠り昼餉の時のすぎにけり

                           山口波津女

二月十三日は「事始(ことはじめ)」。地方によっては「正月始め」「正月起こし」とも言い、正月を迎えるための準備を始める日だ。関西では、現在でも茶道や花柳界などの人々がこの日を祝う。なかでも、京都祇園の事始は有名で、テレビや新聞でも風物詩として必ず紹介される。「京なれやまして祇園の事始」(水野白川)。そして昔は煤払い、松迎え(門松用の松を山から伐り出してくること)もこの日におこない、歳暮もこの日からだった。いよいよ年の瀬というわけである。煤払いは大掃除であるが、足手まといになる老人や病人、子供らは別室に籠らされた。狭い家だと、他家にあずかってもらう。これが「煤籠(すすごもり)」で、あるいは「煤逃(すすにげ)」とも言った。作者も煤から逃げて一室に籠っているのだが、昼餉の時を過ぎても、なかなか掃除は終りそうもない。お腹が空いてきていらいらもするけれど、若いものが頑張ってくれていることだし、それに年に一度のことなのだからと思い、ひたすら時間をやり過ごそうとしている。一人で長時間何もしないでいるのも、結構つらいものだ。(清水哲男)


December 14121998

 又例の寄せ鍋にてもいたすべし

                           高浜虚子

夜、客がある。「何にしましょうかね」と家人に相談されて、寒い折りでもあるから「又例の寄せ鍋」にしようかと答えた文句を、そのまま句にしてしまっている。こんなものが「俳句ですか」「文学なりや」と、正面から生真面目に問われても困るが、ま、虚子句の魅力の一つは、こうした天衣無縫な詠みぶりにあることだけは確かだ。このあたり、子規の句境とも共通している。ただし、虚子という大きな名前によりかかって、はじめて「俳句」と認知されるところがないとは言えないけれど……。でも、この句は「寄せ鍋」の単純な楽しさを予感させる意味では、なかなかに優れている。楽しさの正体は、たとえば「沸々と寄せ鍋のもの動き合ふ」(浅井意外)という「何でもあり」の鍋物そのものに見えている。そして「例の寄せ鍋」を喜んで食べてくれるはずの、「何でもあり」の気のおけない客を待ちかねる雰囲気も、句から十分に読み取れる。寄せ鍋は昔「たのしみ鍋」とも言ったそうだ。材料によって贅沢にも質素にもできるのが妙だが、いずれにせよ鍋物の美味い不味いは、おおむね誰とつつくかで決定される。句が暗示している客は、間違いなく歓迎されている。(清水哲男)


December 15121998

 夜の霜いくとせ蕎麦をすすらざる

                           下村槐太

戦の年、師走の作。食料難時代。寒い夜に、蕎麦すらも簡単には「すすれなかった」のだ。晦日蕎麦なぞ、夢のまた夢であった。半世紀前の国民的な飢えを、いまに伝える一句である。ところで、この句が生まれた現場に立ちあっていた人がいる。後に『定本下村槐太句集』(1977)を編纂することになる金子明彦だ。「昭和二十年十二月、大阪玉造の夜の句会の席であった。私は十八歳で、いくらか年長の友人とともに、戦後急速に再開されはじめていたあちらこちらの句会を荒らしまわっていた。老人ばかりの句会に丸坊主の少年の私らが乗り込んで、高点をさらうのであった。そういう友人が案内してくれた句会で、私たちが行くともうすでに五、六人が集まっていた。(中略)やがて警防団の制服を着た長身の男がおくれて入ってくると、正面にどっかとすわった。(略)不遜で生意気だった少年の私にも、傲然として見えた。やがて被講がはじまって、選句のさい私が瞠目して選んだ句が読み上げられると、その男は低い声で「クワイタ」と名乗った。永かった戦争がすんだばかりである。(略)大阪玉造駅周辺は、そのころいちめんの焦土であった。街燈はなく夜は暗く、寒さが身にしみた。『いくとせ蕎麦をすすらざる』というなにか哀しみか、歎きにも似た切実な思いが、私のこころをとらえて離れなかったのである」。(清水哲男)


December 16121998

 船のやうに年逝く人をこぼしつつ

                           矢島渚男

れていく年。誰にもそれぞれの感慨があるから、昔から季語「年逝く」や「行く年」の句はとてもたくさんある。が、ほとんどはトリビアルな身辺事情を詠んだ小振りの抒情句で、この句のように骨格の太い作品は珍しい。「船のやうに」という比喩も俳句では珍しいが、なるほど年月はいつでも水の上をすべるがごとく、容赦なく逝ってしまうのである。つづく「人をこぼしつつ」が、まことに見事な展開だ。これには、おそらく二つの意味が込められている。一つは、人の事情などお構いなしに過ぎていく容赦のない時間の流れを象徴しており、もう一つには、今年も「時の船」からこぼれ落ちて不在となった多くの死者を追悼する気持ちが込められている。「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」と、芭蕉は『おくのほそ道』に書きつけた。この情景を年の暮れに遠望すれば、かくのごとき世界が見えてくるというわけである。蛇足ながら「舟」ではなくて「船」であるところが、やはり現代ならではの作品だ。蛇足ついでの連想だが、いわゆる「一蓮托生」の「蓮」も、現実的にはずいぶんと巨大になってきているのだと思う。『船のやうに』所収。(清水哲男)


December 17121998

 狸汁花札の空月真赤

                           福田蓼汀

料理屋か何かで一杯やりながら、親しい仲間と花札で遊んでいるという図。小腹が空いてきたので、みんなで狸汁を注文した。しばし休憩である。運ばれてきた狸汁をすすりながら、ちらばった花札を見るともなく見ていると、ふと真っ赤な月の札に目がいった。人を化かすのが専門の狸だけに、真っ赤な月の様子もただならぬ気配に思えたというところか。小さな花札を一挙に視覚的に拡大して、句全体を妖しい雰囲気に仕立て上げている奇妙な味が面白い。ところで、花札に「真赤な月」の絵柄はない。俗に言う「坊主」札に月が出ているものはあるけれど、月が赤いのではなく、月光にあたる部分(山の上の空)が赤く塗られているだけだ。月それ自体は真っ白である。本当は空が真っ赤ということなのだが、この札を短い言葉で形容するとなれば「空月真赤」と言うしかないだろう。そして、問題は狸汁。作者にとっての問題ではなく、私にとっての問題なのだ。というのも、これまでに一度も食べたことがないからで、いったいどういう味がするものやら見当もつかない。味噌汁にするのが普通だと聞いてはいる。でも、食したことのある友人も皆無だし、手元の角川版歳時記にも「冬の狸は脂肪が乗って悪くはないという」などと伝聞調の記述があるばかり。この解説者も、食べたことはないようだ。どなたか、狸汁を出す店をご存じの方がおられましたら、ぜひともご教示いただきたく……。(清水哲男)


December 18121998

 冬の日の川釣の竿遺しけり

                           宇佐美魚目

走に父親を亡くした作者の追悼六句の内。説明するまでもないが、故人愛用の品は涙を誘う。亡くなっても、いつもの場所にいつものように釣竿はあり、それを使う主がもはやいないことが、とんでもなく理不尽なことに感じられてならない。見ていると、いまにも父親が入ってきて、竿を手に元気に出かけていきそうな気がするからである。日差しの鈍い冬の日だけに、作者はますます陰欝な心持ちへと落ちていくのだ。人が死ねば、必ず何かを遺す。当たり前だけれど、生き残った者にはつらいとしか言いようがない。遺品は、故人よりもなお雄弁に本人を語るところがあり、その雄弁さが遺族の万感の思いを誘いだすのである。釣竿だとか鞄だとかと、なんでもない日常的な物のほうがむしろ雄弁となる。その意味からすると、故人自身が雄弁になっている著作物などは、かえって遺品としての哀しみの誘発度は少ないのではあるまいか。さらには、インターネットのホームページなどはどうだろう。故人のページが、契約切れになるまではネットの上で電子的に雄弁にも明滅している。その様子を私は、ときおり自分の死んだ後のこととして想像することがある。『秋収冬蔵』(1975)所収。(清水哲男)


December 19121998

 賀状書く喪中幾葉かへし読み

                           川畑火川

めに出さなければと思いつつも、結局、暮れの忙しい合間をぬって書くことになる。ひとりひとり相手を思い出していると、なかなか筆が進まない。そんななかで、暮れ近くに「喪中」の挨拶が届いた人には出さないようにするわけだが、念のために挨拶状を取り出して「喪中」かどうかを再度確認することになる。その一枚一枚を眺めていると、亡くなった人のなかには、若かったころに親しくしていただいた方も散見され、そこでまた筆が止ってしまうということになる。つらいのは、なんといっても「竹馬の友」のご両親の訃報だ。私の友人のご両親といえば、お若くても八十代前半だから、止むを得ないといえばそれまでだけれど、やはり訃報は切ない。なんとも、やりきれない。お若かったころのあれこれが思いだされて「ああ、人間はいつか死ぬのだ」と、あらためてそんな馬鹿なことをつぶやいたりもする。私の田舎は、夜になると鼻をつままれてもわからないほどの真の暗闇が訪れた。その真暗闇のそのまた奥の山の墓場に、よくしていただいたみなさんが眠っておられる……。「喪中」の葉書は多く紋切り型だが、そういうことも雄弁に語りかけてくる。作者の気持ちは、わかり過ぎるほどにわかる。(清水哲男)


December 20121998

 藻疊はよきや鴨たち雨の中

                           山口青邨

和三十八年(1963)の作。自解に「東京西郊井の頭公園、雨の風景」とある。我が地元の公園だが、地元民としてはわざわざ雨の日に出かけたりはしないものだ。したがって、雨の日の鴨たちの様子は知らないのである。作者は、以前から予定されていた句会があったので、雨にも負けずに出かけていった。「冬のことであり、それに雨、私たち俳句を作るものの外は誰もいない」と書いている。以下、地元民にとっても貴重なレポートを書き写しておく。「私は弁天堂の軒下に入って池の鴨の写生を初めた。鴨はたくさんいた。こんなひどい雨の中で鴨はどうしているのであろう。冬も枯れない藻、河骨のような広い葉の水草、睡蓮などべったり敷きつめて、藻疊(もだたみ)をつくっている。鴨はその上にいた。藻のない自由な水面には一羽もいない。眼を見はるとそれも鴨、これも鴨、頭が黒いので水草の中ではまぎらわしい。時々嘴(くちばし)で藻をくわえてはぶるっと振って、千切って食べている。水の中より藻疊のほうが暖かいのであろうか」。『自選自解・山口青邨句集』(1970)所収。(清水哲男)


December 21121998

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人

                           草間時彦

書に「勤めの身は」とある。自嘲ではない。あきらめの境地というのでもない。ひっそりと咲く冬薔薇に託した嘆息である。会社の勤務実績査定で「詩人(俳人)」であることがマイナスに働いたようだ。そうとしか思えない。そんな馬鹿な話があるものか。……とまで作者は言っていないが、こういうことは実際にないとは言い切れない。たとえば俳人の富安風生は逓信次官にまで出世したエリート官僚だったが、上司から句作りについて遠回しに非難されたことがあるという。査定にまで影響はしないにしても、職場で「詩人だからなあ」と言われれば、それは「仕事ができない変わり者」と言われたのと同義なのだ。ゴルフや釣に凝っていても、決してそんなニュアンスでは言われない。ゴルフや釣は道楽だけれど、詩は道楽のうちに入らないと思われているらしい。道楽を超えて、四六時中(したがって仕事中も)とてつもない非常識なことばかり考えているのが詩人なのである。こうした頑迷な「会社常識」に出会うたびに、私は「詩」も随分とかいかぶられたものだと思ってきた。と同時に、この種の「会社常識」がもっとも恐れるのが「言葉の働き」だということに、内心ニヤリともしてきたのである。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


December 22121998

 定年の人に会ひたる冬至かな

                           高橋順子

至。昼の時間が最も短い日。一年を一日に例えるならば、冬至はたそがれ時ということになる。そんな日に偶然にも、定年を迎えた人に会った。定年もまた、人生のたそがれ時には違いない。その暗合に、作者は人生的な感慨を覚えている。そして、作者の感慨は、読者の心の内に余韻となって共鳴していくだろう。さりげないけれど、内実は鋭い句だ。作者は詩人で、俳句もよくする(俳号は泣魚)。「定年」で思い出した。句とは無関係だが、作家の篠田節子という人が「朝日新聞」(12月20日付朝刊)に、こんなことを書いていた。「買物に行って近所に住む定年退職後の『おじさん』に会うと、『ねえ、お茶、飲もうよ』とマクドナルドに連れ込んでしまう友人がいる。山の手の住宅地で、マダムファッションに身を固めて父母会に出席する風土に、きっちり溶け込んでいる主婦である。『おじさん』の話は新鮮で驚かされることが多いという。……」。なんとなく嘘っぽい話だ。事実だとすれば、こんなふうに定年後の男をおちょくる女もいるのかと、腹が立つ。ノコノコついていく男にも呆れるが、マクドナルドでちょっと「おじさん」の話を聞いたくらいで、何か人生のタメになると思っている軽薄な女なんぞの顔も見たくはない。「おじさん」と呼ばれる立場の読者の皆さんも、十分にご注意あれ。『博奕好き』(1998)所収。(清水哲男)


December 23121998

 夜空より大きな灰や年の市

                           桂 信子

の市。新年用の品物を売る市だ。昔は社寺の境内に立つ大市のことを言ったようだが、いまでは、ちょっとした商店街の歳末大売り出しのことでもよいだろう。しかし、間違ってもスーパー・マーケットなどのそれではない。やはり、空間的には戸外の寒さが必要だ。東京でいえば、上野のアメヨコなど。寒さの中を人込みにまぎれているだけで、年の瀬を感じる。活気があり、風情がある。最近はダイオキシン騒ぎもあって焚火もご法度だが、ちょっと前までは、そんな市でのそこここでは焚火が見られた。店の人が暖を取るためと、不用になった藁や紙の類を燃やすためだ。そういうものを火に投げ込む。と、一瞬パーッと炎が大きくなり、やがて紙類は大きな灰となって夜空に舞い上がり、舞い降りてくる。そのありさまが、年の瀬ならではの情緒の一つであった。炎は、人間の心をゆさぶる。そして炎とともに上がっていく灰もまた、心をざわめかせる。いまとなっては、もはや郷愁の光景を詠んだ句だ。いや、書かれた当時から、この光景は人々の胸に郷愁のように住みついていた光景であったろう。論理矛盾ではあるけれど、目の前の出来事がすなわち郷愁なのであった。まことに、炎は魔術師という他はない。『初夏』(1977)所収。(清水哲男)


December 24121998

 子へ贈る本が箪笥に聖夜待つ

                           大島民郎

リスマス・プレゼント。西洋のお年玉みたいなものだが、お年玉よりは渡し方に妙味がある。いつごろ、誰が発案したのだろうか。たいしたアイデアだ。このアイデアで最もよいところは、贈り主が匿名であるところだろう。両親からでもなければ、他の誰からでもない。すなわち、神様からのプレゼントということになる。そこが、お年玉のように恩着せがましくなくて素敵だ。ただし、神様からのプレゼントは遠い北国からサンタクロースが運んでくることになっているので、匿名に徹する親は大変である。聖夜にこっそりと枕元に置いておかなければならない。ために、その夜まで保管場所に苦労する。本ならばなるほど箪笥に隠すというテもあるが、大きな物の場合は本当に困惑する。いつだったか一輪車を買ってきたまではよかったが、クローゼットに押し込んではみたものの、いつ発見されるかとヒヤヒヤの仕通しだったことがある。それもこれもが、みな親心。クリスマスの日に、子供が喜ぶ顔を想像しては、作者も指折り数えて待っているのだ。このとき、父親は子供よりもむしろ聖夜を待ちかねていたにちがいない。(清水哲男)


December 25121998

 青菜つづく地平に基地の降誕祭

                           飴山 實

和二十九年(1954)の作句。この年代に意味がある。句集では掲句と並んで、「キャンプ・オーサカ、日本人労務者の首切り反対スト」と前書のある「星条旗より膨れ赤旗枯れ芝生」他一句が載っている。大不況であった。米軍基地といえどもが、経費の節減を強いられていた。まずは、弱いところからのリストラである。いつの世にも変わらぬお定まりの経営感覚だ。反発した日本人労働者が、赤旗を林立させて果敢にストライキを打ったのは当然として、しょせん米軍の強権には歯が立たなかったはずだ。当時、基地の街・立川の高校に通っていた私には、いまだに実感として納得される。植民地支配とは、ああいう理不尽なものであった。そんな基地にクリスマスが訪れ、普段とは違った静寂の日となる。周辺には冬野菜の植えられた畑が広がっており、その彼方に、一般の日本人にはうかがい知れぬベース・キャンプが鉄条網に囲まれてひっそりとしている。予告なく容赦なく轟音を響かせて飛ぶ飛行機も、今日だけはその気配もなく翼を休めている。これが彼らのクリスマスか。あのなかでは、一体どんなことが行われているのだろう。眼前の青菜と彼方の鉄条網との対比の妙。戦後史の一齣である。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 26121998

 餅搗きや焚き火のうつる嫁の顔

                           黒柳召波

戸時代の句。「うつる」は「映える」に近い内容の言葉だろう。餅つきは早朝の暗いうちから行われるのが常だったので、電灯などないころには焚き火の灯りが必要だった。また、その焚き火の威勢のよさが「餅つき」の雰囲気を盛り上げた。そんな焚き火の明るさのなかで、懸命に奮闘している嫁の姿に、作者はいたく感じ入っている。まめまめしく働く嫁に満足しており、さらには美しいと一瞬見惚れたりもしている。もちろん、彼女は今年当家に嫁いできたのだ。これで、よい正月が迎えられる……。新春を間近にした大人の無邪気が伝わってくる。ところで、この「嫁」とは誰の嫁なのだろうか。というのも、私の田舎では、昔から自分の妻のことを単に「嫁」と言い、いまだに「息子の嫁」とは区別してきている。現代の感覚からすると、句の「嫁」は後者であろうが、この場合は自分の新妻である可能性が高いと思う。だとすれば、まことにもって「ご馳走様(のろけ)」の句だ。さて、こうして大量の餅をつきおわると、あとは正月を待つばかり。なんとなく、大人も子供も神妙な顔つきになってくるから面白い。しかし、どんな世の中にも皮肉屋はいるもので『柳多留』に一句あり。「餅は搗くこれから嘘をつくばかり」と。(清水哲男)


December 27121998

 年の瀬のうららかなれば何もせず

                           細見綾子

れもこれもと思いながらも、結局は何事も満足にはかどらないまま過ぎてしまうのが、私の年の瀬。ならば、この句のように、今日は何もしないと思い決めたほうがすっきりする。天気は晴朗、風もなし。そう思い決めると、心の中までが「うららか」となる。他人に迷惑が及ぶわけではなし、何も焦ることはないのである。と言いつつも、ついついそこらへんの物を片付けたくなるのが、しょせんは凡人の定めだろうか。歳時記や古いタイプの暦を見ていると、昔の年用意は実に大変だったことがわかる。大掃除、餅つき、床飾り、松迎え、年木樵、春着の準備などなど、一日たりとも何もしないで過ごすわけにはいかなかったろう。ただし、暦というマニュアルに従って、頑張って事を進めていければ、ちゃんと人並みに正月が迎えられるようにはなっていた。マニュアル時代の現代において、そうした暦がないのも変な話とも言えようが、それだけ昔と比べて、正月の過ごし方やありようが多様化してきて、マニュアル化できなくなったということだろう。なにしろ、おせち料理ひとつにしても、洋風や中華風が登場する時代なのだから……。正月よりもクリスマスのほうの古典性が守られているという変な国。(清水哲男)


December 28121998

 掛けかへし暦めでたし用納

                           佐藤眉峰

納は、その年の仕事を終わること。民間会社では「仕事納」と言い、官庁では「御用納」と言う。この日は残務を処理したり、机上などを片付けたりしてから、年末の挨拶をかわして早めに帰宅する。私が雑誌社に勤めていたころには、会社に歳暮で届いたビールや酒で昼前に乾杯するのが習慣だった。で、さっとすぐに引き上げていくのは故郷に帰る人や旅行に出かける人たちで、いつまでもグズグズしているのは、帰ったところで何もすることがない独身組だった。もちろん、私は後者。それはともかく、よく気がつく人のいる会社では、句のように、この日、暦が来年のものに掛けかえられる。新年初出社のときに古いカレンダーがぶら下がっていたのでは、興醒めだからだ。そして、新しい暦に掛けかえられると、年内にもかかわらず、たしかに一瞬「めでたし」という気分になるものだ。平凡なようだが、情緒の機微に敏感な作者ならではの句である。そしてまた、このときに捨てられる今年の暦は「古暦」と言われ、冬の季語にもなっている。正確に言えばまだ使える暦なのに「古暦」とは、面白い。ではいったい、年内のいつごろから「今年の暦」は「古暦」となるのかと悩んだ(?)句が、後藤夜半にある。「古暦とはいつよりぞ掛けしまま」。(清水哲男)


December 29121998

 行年や夕日の中の神田川

                           増田龍雨

年は「ゆくとし」と読ませる。神田川は東京の中心部をほぼ東西にながれ、隅田川にそそいでいる川だ。武蔵野市の井の頭池を水源としている上流部を、昔は神田上水と言った。中流部は江戸川だ。なにしろ川は長いので、同じ川の名前でも、場所によってイメージは異なる。句の神田川は、どのあたりだろうか。全国的には隅田川や多摩川ほどには知られていない川だけれど、東京人にとっては、昔の生活用水だったこともあり、懐しいひびきのする呼び名だろう。その神田川の夕暮れである。私はお茶の水駅あたりの神田川が好きなので、勝手に情景をそこに求めて読んでいるのだが、たしかに年末の風情はこたえられない。学生街だから、普段は若者で溢れている街に、年末ともなると彼らの姿は消えてしまう。そんな火の消えたような淋しい街に、神田川は猛るでもなく淀むでもなく、夕日の中でいつものように静かに息づいている。まことに「ああ、今年も暮れていくのだ」という実感がこみ上げてくる。そして、こういうときだ。私がお茶の水駅から寒風の中を十数分ほど歩いてでも、有名なビヤホールの「ランチョン」に立ち寄りたくなるのは……。かつてはこの店で、毎日のようにお見かけした吉田健一さんや唐木順三さんも、とっくの昔に鬼籍に入られた。年も逝く、人も逝く。(清水哲男)


December 30121998

 門松を立てに来てゐる男かな

                           池内たけし

宅に立てに来ているのではないだろう。近所の屋敷の門前で、出入りの仕事師が黙々と門松を立てている。通りかかった作者は、立てられていく門松よりも、ふっと男のほうに視線がいった。たしか去年も、この人が来ていたな……。といって、それだけのことなのだが、歳末風景の的確なスナップショットとして、かなり印象に残る句だ。さて、商店街の宣伝用に早くから立てられる門松は別として、普通は二十日過ぎころから立てられていく。一夜飾りが嫌われるため、門松立ては小晦日(こつごもり・大晦日の前日)までにすませるのが今の風習だ。ところが江戸期くらいまでは、大晦日に立てる地方もあったらしい。そしてもっと昔になると、大晦日に立てるのが当たり前だったという説もある。その根拠に必ず上げられるのは、平安期の歌人・藤原顕季(あきすえ)の次の歌だ。「門松をいとなみたつるそのほどに春明け方に夜やなりぬらむ」。なるほど、この歌からすれば、たしかに大晦日に立てている。それも、なるべく人目につかない夜近くに……。でも、考えてみれば、このほうが正しいのではあるまいか。元日というハレの場をきちんと演出するためには、元日は昨日と同じ光景の日であってはならないからだ。(清水哲男)


December 31121998

 うつくしや年暮れきりし夜の空

                           小林一茶

年1998年は、一茶に締めくくってもらおう。ここまでくれば、ジタバタしてもはじまらない。一茶とともに、夜空でも眺めることにしたい。ただ、ミもフタもないことを言っておけば、一茶の時代は陰暦の大晦日だから、二カ月ほど先の空を詠んでいる。そろそろ梅も咲いているかもしれぬ早春の夜空だ。だから、相当に今夜とは雰囲気は異なるが、押し詰まった気持ちには変わりはないのである。古句で締めたついでに、鎌倉末期から南北朝に生きた兼好法師の『徒然草』より大晦日の件りを引用して、今年度の『増殖する歳時記』の本締めとしたい。ご愛読、ありがとうございました。「晦日(つごもり)の夜、いたう闇(くら)きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門たゝき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくのゝしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比(ころ)都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。(清水哲男)




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