神奈川大の高校生俳句大賞に4000通の応募。結果はイマイチ、昨日付産経夕刊参照。




1998N1210句(前日までの二句を含む)

December 10121998

 冬の街戞々とゆき恋もなし

                           藤田湘子

て、この見慣れない漢字「戞(かつ)」とは何を意味するのだろうか。さっそく漢和辞典を引いてみたら、「戞」は「戈(ほこ)」のことであり、字解としては「戈で首を切る」意とあった。なるほど、戈の上に頭部が乗っかっている。で、「戞々」は「かつかつ」と発音する。馬のヒヅメの音などを表現するのに使われていた言葉らしく、この場合は人の足音に流用されている。このときの作者は、まだ二十代。あえて難しい漢字をもってきたのは、あながち若気のいたりからでもあるまいと読んだ。平板に「かつかつと」とやったのでは、どうにもシマラない。青年に特有の昂然たる気合いが、いまひとつ表現できない。だから「戞々と」と漢語を使用することで、そのあたりの気分を出したかったのだろう。したがって「恋もなし」とは言っているが、これはほとんどつけたりである。主眼は、ひとりの若者が孤独などものともせずに己れの信じる道を行くのだという「述志の詩」なのだ。冬の街だからこそ、寒気にさからうように昂然と眉を上げて歩いていくというわけだ。その意気込みが「戞々」に込められている。やはり「戞々」でなければならないのだった。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


December 09121998

 風邪衾かすかに重し吾子が踏む

                           能村登四郎

具の「衾(ふすま)」には特殊なものもあるが、この場合は普通の掛け布団と解してよいだろう。作者は風邪で寝込んでいる。高熱のなかでうつらうつらしていると、かすかに布団が重くなったような気がした。どうしてだろうか。少し考えて、ああきっと子供がいま裾を踏んでいったからだろうと納得している。高熱ゆえの判断力の低下である。誰にでも、似たような体験はあるだろう。……と、この一句からではここまでしか読めないが、実はこのときの作者に子供などいなかったことを知ると、俄然、句は違う色合いを帯びてくる。子供はいたのだが、六歳のときに病没している。死に別れている。したがって、子供が布団を踏むことなどはありえないわけだ。でも、作者にはそう思えた。あくまでも高熱ゆえの幻想なのだけれど、この幻想からわき出てくる悲哀の感情は読む者の心にずしりと重くのしかかるようだ。このような句を前にすると、俳句を読むとはどういうことかと考えさせられてしまう。作者の人生、作者の境遇を知らないと読み違えることがあるからだ。テキストだけでは成立しない句も含めて、俳句は芒洋として歩いてきたというしかない。『咀嚼音』所収。(清水哲男)


December 08121998

 短日や塀乗り越ゆる生徒また

                           森田 峠

者は高校教師だったから「教室の寒く生徒ら笑はざり」など、生徒との交流を書いた作品が多い。この句は、下校時間が過ぎて校門が閉められた後の情景だろう。職員室から見ていると、何人かの生徒がバラバラッと塀を乗り越えていく様子が目に入った。短日ゆえに、彼らはほとんど影でしかない。が、教師には「また、アイツらだな」と、すぐにわかってしまうのである。規則破りの常連である彼らに、しかし作者は親愛の情すら抱いているようだ。いたずらっ子ほど記憶に残るとは、どんな教師も述懐するところだが、その現場においても「たまらない奴らだ」と思いながらも、句のように既に半分は許してしまっている。昭和28年(1953)の句。思い返せば、この年の私はまさに高校一年生で、しばしば塀を乗り越えるほうの生徒だった。が、句とは事情が大きく異なっていて、まだ明るい時間に学校から脱出していた。というのも、生徒会が開かれる日は、成立定数を確保するために、あろうことか生徒会の役員が自治会活動に不熱心な生徒を帰さないようにと、校門を閉じるのが常だったからである。校門を閉めたメンバーのほとんどは「立川高校共産党細胞」に所属していたと思われる。「反米愛国」が、我が生徒会の基調であった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)




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