誰もアジア大会を話題にしない。日本人の「アジアが大事」は所詮タテマエですかね。




1998ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12121998

 老木のふっと木の葉を離しけり

                           大串 章

句に「ふと」という言葉はいらない。「ふと」が俳句なのだから……。そう言ったのは上田五千石だったが、その通りだろう。しかし、この場合には「ふっと」が必要だ。「ふっと」の主体は俳人ではなくて、老木だからである。老木から一枚の木の葉が落ちてくる様子に、作者は「ふと」この老木が人間のように思え、彼が「ふっと」葉を手離したように見えたのである。実によく「ふっと」が利いている。「ふっと(ふと)」は「不図」であり、図(はか)らずもということだ。老木は、おのれの意志とはほぼ無関係に、図らずも葉を離してしまった。必死に離すまいとしていたのでもなく、離してもよいと思っていたわけでもない。「ふっと」としか言いようのない心持ちのなかで、葉は枝を離れていったのだ。作者が「ふと」老木を擬人化した効果も、ここで見事に出ている。私などが思うのは、人間も齢を重ねるに連れて、このように「ふっと」手離してしまうものが確実にあるだろうなということだ。一度離した木の葉は、もう二度と身にはつかない。戻ってはこないのである。そういうことは知りながら、やはり「ふっと」手離してしまうのだ。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


December 11121998

 一枚は綿の片寄る干布団

                           飯島晴子

当てをすれば、そういうことにはならない。頭ではわかっていても、ついついどうにもしないままに、月日が過ぎていく。誰にも、こういうことの一つや二つはあるのではなかろうか。干すたびに、綿が片寄ってしまう一枚の布団。針と糸でちょっと止めてやれば片寄ることもないのに、作者はそれをしないのである。面倒臭いという思いからだろうが、しかし、干すたびに綿をととのえるほうが、結局はよほど面倒である。理屈はそうなるのだけれど、やはり作者は干すたびに綿を整えるほうを選んでいる。実は、私の一枚の掛け布団もそういう状態になっているので、この句を見つけたときには笑ってしまった。この布団を私の物臭の象徴とすれば、他にもぞろぞろと類似の事柄が想起される。ジーパンのポケットのなかで、ほつれた糸がこんがらかったままになっている。これもその一つだ。キーホルダーの鎖がいつも引っ掛かって、取りにくいったらありゃしない。ハサミで糸を切ってしまえば、どんなに楽になるだろう。でも、それをしないままに過ごしている。即物的な事柄でもこれだから、心のなかの様々なこんがらがりは、日々「増殖」していくというわけだ。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


December 10121998

 冬の街戞々とゆき恋もなし

                           藤田湘子

て、この見慣れない漢字「戞(かつ)」とは何を意味するのだろうか。さっそく漢和辞典を引いてみたら、「戞」は「戈(ほこ)」のことであり、字解としては「戈で首を切る」意とあった。なるほど、戈の上に頭部が乗っかっている。で、「戞々」は「かつかつ」と発音する。馬のヒヅメの音などを表現するのに使われていた言葉らしく、この場合は人の足音に流用されている。このときの作者は、まだ二十代。あえて難しい漢字をもってきたのは、あながち若気のいたりからでもあるまいと読んだ。平板に「かつかつと」とやったのでは、どうにもシマラない。青年に特有の昂然たる気合いが、いまひとつ表現できない。だから「戞々と」と漢語を使用することで、そのあたりの気分を出したかったのだろう。したがって「恋もなし」とは言っているが、これはほとんどつけたりである。主眼は、ひとりの若者が孤独などものともせずに己れの信じる道を行くのだという「述志の詩」なのだ。冬の街だからこそ、寒気にさからうように昂然と眉を上げて歩いていくというわけだ。その意気込みが「戞々」に込められている。やはり「戞々」でなければならないのだった。『途上』(1955)所収。(清水哲男)




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