金曜日の忘年会で鹿肉。土曜日は馬肉。「馬鹿」の反対だが、なんだか馬鹿みたい。




1998ソスN12ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 13121998

 煤籠り昼餉の時のすぎにけり

                           山口波津女

二月十三日は「事始(ことはじめ)」。地方によっては「正月始め」「正月起こし」とも言い、正月を迎えるための準備を始める日だ。関西では、現在でも茶道や花柳界などの人々がこの日を祝う。なかでも、京都祇園の事始は有名で、テレビや新聞でも風物詩として必ず紹介される。「京なれやまして祇園の事始」(水野白川)。そして昔は煤払い、松迎え(門松用の松を山から伐り出してくること)もこの日におこない、歳暮もこの日からだった。いよいよ年の瀬というわけである。煤払いは大掃除であるが、足手まといになる老人や病人、子供らは別室に籠らされた。狭い家だと、他家にあずかってもらう。これが「煤籠(すすごもり)」で、あるいは「煤逃(すすにげ)」とも言った。作者も煤から逃げて一室に籠っているのだが、昼餉の時を過ぎても、なかなか掃除は終りそうもない。お腹が空いてきていらいらもするけれど、若いものが頑張ってくれていることだし、それに年に一度のことなのだからと思い、ひたすら時間をやり過ごそうとしている。一人で長時間何もしないでいるのも、結構つらいものだ。(清水哲男)


December 12121998

 老木のふっと木の葉を離しけり

                           大串 章

句に「ふと」という言葉はいらない。「ふと」が俳句なのだから……。そう言ったのは上田五千石だったが、その通りだろう。しかし、この場合には「ふっと」が必要だ。「ふっと」の主体は俳人ではなくて、老木だからである。老木から一枚の木の葉が落ちてくる様子に、作者は「ふと」この老木が人間のように思え、彼が「ふっと」葉を手離したように見えたのである。実によく「ふっと」が利いている。「ふっと(ふと)」は「不図」であり、図(はか)らずもということだ。老木は、おのれの意志とはほぼ無関係に、図らずも葉を離してしまった。必死に離すまいとしていたのでもなく、離してもよいと思っていたわけでもない。「ふっと」としか言いようのない心持ちのなかで、葉は枝を離れていったのだ。作者が「ふと」老木を擬人化した効果も、ここで見事に出ている。私などが思うのは、人間も齢を重ねるに連れて、このように「ふっと」手離してしまうものが確実にあるだろうなということだ。一度離した木の葉は、もう二度と身にはつかない。戻ってはこないのである。そういうことは知りながら、やはり「ふっと」手離してしまうのだ。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


December 11121998

 一枚は綿の片寄る干布団

                           飯島晴子

当てをすれば、そういうことにはならない。頭ではわかっていても、ついついどうにもしないままに、月日が過ぎていく。誰にも、こういうことの一つや二つはあるのではなかろうか。干すたびに、綿が片寄ってしまう一枚の布団。針と糸でちょっと止めてやれば片寄ることもないのに、作者はそれをしないのである。面倒臭いという思いからだろうが、しかし、干すたびに綿をととのえるほうが、結局はよほど面倒である。理屈はそうなるのだけれど、やはり作者は干すたびに綿を整えるほうを選んでいる。実は、私の一枚の掛け布団もそういう状態になっているので、この句を見つけたときには笑ってしまった。この布団を私の物臭の象徴とすれば、他にもぞろぞろと類似の事柄が想起される。ジーパンのポケットのなかで、ほつれた糸がこんがらかったままになっている。これもその一つだ。キーホルダーの鎖がいつも引っ掛かって、取りにくいったらありゃしない。ハサミで糸を切ってしまえば、どんなに楽になるだろう。でも、それをしないままに過ごしている。即物的な事柄でもこれだから、心のなかの様々なこんがらがりは、日々「増殖」していくというわけだ。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)




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