新聞やテレビが今年を回顧している。ムカツクなあ。そのしたり顔と手際の良さには。




1998ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20121998

 藻疊はよきや鴨たち雨の中

                           山口青邨

和三十八年(1963)の作。自解に「東京西郊井の頭公園、雨の風景」とある。我が地元の公園だが、地元民としてはわざわざ雨の日に出かけたりはしないものだ。したがって、雨の日の鴨たちの様子は知らないのである。作者は、以前から予定されていた句会があったので、雨にも負けずに出かけていった。「冬のことであり、それに雨、私たち俳句を作るものの外は誰もいない」と書いている。以下、地元民にとっても貴重なレポートを書き写しておく。「私は弁天堂の軒下に入って池の鴨の写生を初めた。鴨はたくさんいた。こんなひどい雨の中で鴨はどうしているのであろう。冬も枯れない藻、河骨のような広い葉の水草、睡蓮などべったり敷きつめて、藻疊(もだたみ)をつくっている。鴨はその上にいた。藻のない自由な水面には一羽もいない。眼を見はるとそれも鴨、これも鴨、頭が黒いので水草の中ではまぎらわしい。時々嘴(くちばし)で藻をくわえてはぶるっと振って、千切って食べている。水の中より藻疊のほうが暖かいのであろうか」。『自選自解・山口青邨句集』(1970)所収。(清水哲男)


December 19121998

 賀状書く喪中幾葉かへし読み

                           川畑火川

めに出さなければと思いつつも、結局、暮れの忙しい合間をぬって書くことになる。ひとりひとり相手を思い出していると、なかなか筆が進まない。そんななかで、暮れ近くに「喪中」の挨拶が届いた人には出さないようにするわけだが、念のために挨拶状を取り出して「喪中」かどうかを再度確認することになる。その一枚一枚を眺めていると、亡くなった人のなかには、若かったころに親しくしていただいた方も散見され、そこでまた筆が止ってしまうということになる。つらいのは、なんといっても「竹馬の友」のご両親の訃報だ。私の友人のご両親といえば、お若くても八十代前半だから、止むを得ないといえばそれまでだけれど、やはり訃報は切ない。なんとも、やりきれない。お若かったころのあれこれが思いだされて「ああ、人間はいつか死ぬのだ」と、あらためてそんな馬鹿なことをつぶやいたりもする。私の田舎は、夜になると鼻をつままれてもわからないほどの真の暗闇が訪れた。その真暗闇のそのまた奥の山の墓場に、よくしていただいたみなさんが眠っておられる……。「喪中」の葉書は多く紋切り型だが、そういうことも雄弁に語りかけてくる。作者の気持ちは、わかり過ぎるほどにわかる。(清水哲男)


December 18121998

 冬の日の川釣の竿遺しけり

                           宇佐美魚目

走に父親を亡くした作者の追悼六句の内。説明するまでもないが、故人愛用の品は涙を誘う。亡くなっても、いつもの場所にいつものように釣竿はあり、それを使う主がもはやいないことが、とんでもなく理不尽なことに感じられてならない。見ていると、いまにも父親が入ってきて、竿を手に元気に出かけていきそうな気がするからである。日差しの鈍い冬の日だけに、作者はますます陰欝な心持ちへと落ちていくのだ。人が死ねば、必ず何かを遺す。当たり前だけれど、生き残った者にはつらいとしか言いようがない。遺品は、故人よりもなお雄弁に本人を語るところがあり、その雄弁さが遺族の万感の思いを誘いだすのである。釣竿だとか鞄だとかと、なんでもない日常的な物のほうがむしろ雄弁となる。その意味からすると、故人自身が雄弁になっている著作物などは、かえって遺品としての哀しみの誘発度は少ないのではあるまいか。さらには、インターネットのホームページなどはどうだろう。故人のページが、契約切れになるまではネットの上で電子的に雄弁にも明滅している。その様子を私は、ときおり自分の死んだ後のこととして想像することがある。『秋収冬蔵』(1975)所収。(清水哲男)




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