大幅減税策にも市場は無反応。どこか変だ。「感動なき減税」とは日経新聞の見出し。




1998ソスN12ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 22121998

 定年の人に会ひたる冬至かな

                           高橋順子

至。昼の時間が最も短い日。一年を一日に例えるならば、冬至はたそがれ時ということになる。そんな日に偶然にも、定年を迎えた人に会った。定年もまた、人生のたそがれ時には違いない。その暗合に、作者は人生的な感慨を覚えている。そして、作者の感慨は、読者の心の内に余韻となって共鳴していくだろう。さりげないけれど、内実は鋭い句だ。作者は詩人で、俳句もよくする(俳号は泣魚)。「定年」で思い出した。句とは無関係だが、作家の篠田節子という人が「朝日新聞」(12月20日付朝刊)に、こんなことを書いていた。「買物に行って近所に住む定年退職後の『おじさん』に会うと、『ねえ、お茶、飲もうよ』とマクドナルドに連れ込んでしまう友人がいる。山の手の住宅地で、マダムファッションに身を固めて父母会に出席する風土に、きっちり溶け込んでいる主婦である。『おじさん』の話は新鮮で驚かされることが多いという。……」。なんとなく嘘っぽい話だ。事実だとすれば、こんなふうに定年後の男をおちょくる女もいるのかと、腹が立つ。ノコノコついていく男にも呆れるが、マクドナルドでちょっと「おじさん」の話を聞いたくらいで、何か人生のタメになると思っている軽薄な女なんぞの顔も見たくはない。「おじさん」と呼ばれる立場の読者の皆さんも、十分にご注意あれ。『博奕好き』(1998)所収。(清水哲男)


December 21121998

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人

                           草間時彦

書に「勤めの身は」とある。自嘲ではない。あきらめの境地というのでもない。ひっそりと咲く冬薔薇に託した嘆息である。会社の勤務実績査定で「詩人(俳人)」であることがマイナスに働いたようだ。そうとしか思えない。そんな馬鹿な話があるものか。……とまで作者は言っていないが、こういうことは実際にないとは言い切れない。たとえば俳人の富安風生は逓信次官にまで出世したエリート官僚だったが、上司から句作りについて遠回しに非難されたことがあるという。査定にまで影響はしないにしても、職場で「詩人だからなあ」と言われれば、それは「仕事ができない変わり者」と言われたのと同義なのだ。ゴルフや釣に凝っていても、決してそんなニュアンスでは言われない。ゴルフや釣は道楽だけれど、詩は道楽のうちに入らないと思われているらしい。道楽を超えて、四六時中(したがって仕事中も)とてつもない非常識なことばかり考えているのが詩人なのである。こうした頑迷な「会社常識」に出会うたびに、私は「詩」も随分とかいかぶられたものだと思ってきた。と同時に、この種の「会社常識」がもっとも恐れるのが「言葉の働き」だということに、内心ニヤリともしてきたのである。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


December 20121998

 藻疊はよきや鴨たち雨の中

                           山口青邨

和三十八年(1963)の作。自解に「東京西郊井の頭公園、雨の風景」とある。我が地元の公園だが、地元民としてはわざわざ雨の日に出かけたりはしないものだ。したがって、雨の日の鴨たちの様子は知らないのである。作者は、以前から予定されていた句会があったので、雨にも負けずに出かけていった。「冬のことであり、それに雨、私たち俳句を作るものの外は誰もいない」と書いている。以下、地元民にとっても貴重なレポートを書き写しておく。「私は弁天堂の軒下に入って池の鴨の写生を初めた。鴨はたくさんいた。こんなひどい雨の中で鴨はどうしているのであろう。冬も枯れない藻、河骨のような広い葉の水草、睡蓮などべったり敷きつめて、藻疊(もだたみ)をつくっている。鴨はその上にいた。藻のない自由な水面には一羽もいない。眼を見はるとそれも鴨、これも鴨、頭が黒いので水草の中ではまぎらわしい。時々嘴(くちばし)で藻をくわえてはぶるっと振って、千切って食べている。水の中より藻疊のほうが暖かいのであろうか」。『自選自解・山口青邨句集』(1970)所収。(清水哲男)




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