明日からしばらくネットを離れる方もおられるでしょう。よいお年をお迎えください。




1998ソスN12ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 28121998

 掛けかへし暦めでたし用納

                           佐藤眉峰

納は、その年の仕事を終わること。民間会社では「仕事納」と言い、官庁では「御用納」と言う。この日は残務を処理したり、机上などを片付けたりしてから、年末の挨拶をかわして早めに帰宅する。私が雑誌社に勤めていたころには、会社に歳暮で届いたビールや酒で昼前に乾杯するのが習慣だった。で、さっとすぐに引き上げていくのは故郷に帰る人や旅行に出かける人たちで、いつまでもグズグズしているのは、帰ったところで何もすることがない独身組だった。もちろん、私は後者。それはともかく、よく気がつく人のいる会社では、句のように、この日、暦が来年のものに掛けかえられる。新年初出社のときに古いカレンダーがぶら下がっていたのでは、興醒めだからだ。そして、新しい暦に掛けかえられると、年内にもかかわらず、たしかに一瞬「めでたし」という気分になるものだ。平凡なようだが、情緒の機微に敏感な作者ならではの句である。そしてまた、このときに捨てられる今年の暦は「古暦」と言われ、冬の季語にもなっている。正確に言えばまだ使える暦なのに「古暦」とは、面白い。ではいったい、年内のいつごろから「今年の暦」は「古暦」となるのかと悩んだ(?)句が、後藤夜半にある。「古暦とはいつよりぞ掛けしまま」。(清水哲男)


December 27121998

 年の瀬のうららかなれば何もせず

                           細見綾子

れもこれもと思いながらも、結局は何事も満足にはかどらないまま過ぎてしまうのが、私の年の瀬。ならば、この句のように、今日は何もしないと思い決めたほうがすっきりする。天気は晴朗、風もなし。そう思い決めると、心の中までが「うららか」となる。他人に迷惑が及ぶわけではなし、何も焦ることはないのである。と言いつつも、ついついそこらへんの物を片付けたくなるのが、しょせんは凡人の定めだろうか。歳時記や古いタイプの暦を見ていると、昔の年用意は実に大変だったことがわかる。大掃除、餅つき、床飾り、松迎え、年木樵、春着の準備などなど、一日たりとも何もしないで過ごすわけにはいかなかったろう。ただし、暦というマニュアルに従って、頑張って事を進めていければ、ちゃんと人並みに正月が迎えられるようにはなっていた。マニュアル時代の現代において、そうした暦がないのも変な話とも言えようが、それだけ昔と比べて、正月の過ごし方やありようが多様化してきて、マニュアル化できなくなったということだろう。なにしろ、おせち料理ひとつにしても、洋風や中華風が登場する時代なのだから……。正月よりもクリスマスのほうの古典性が守られているという変な国。(清水哲男)


December 26121998

 餅搗きや焚き火のうつる嫁の顔

                           黒柳召波

戸時代の句。「うつる」は「映える」に近い内容の言葉だろう。餅つきは早朝の暗いうちから行われるのが常だったので、電灯などないころには焚き火の灯りが必要だった。また、その焚き火の威勢のよさが「餅つき」の雰囲気を盛り上げた。そんな焚き火の明るさのなかで、懸命に奮闘している嫁の姿に、作者はいたく感じ入っている。まめまめしく働く嫁に満足しており、さらには美しいと一瞬見惚れたりもしている。もちろん、彼女は今年当家に嫁いできたのだ。これで、よい正月が迎えられる……。新春を間近にした大人の無邪気が伝わってくる。ところで、この「嫁」とは誰の嫁なのだろうか。というのも、私の田舎では、昔から自分の妻のことを単に「嫁」と言い、いまだに「息子の嫁」とは区別してきている。現代の感覚からすると、句の「嫁」は後者であろうが、この場合は自分の新妻である可能性が高いと思う。だとすれば、まことにもって「ご馳走様(のろけ)」の句だ。さて、こうして大量の餅をつきおわると、あとは正月を待つばかり。なんとなく、大人も子供も神妙な顔つきになってくるから面白い。しかし、どんな世の中にも皮肉屋はいるもので『柳多留』に一句あり。「餅は搗くこれから嘘をつくばかり」と。(清水哲男)




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