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January 0311999

 懐手三日の客の波郷かな

                           桐生あきこ

田波郷ファンにとっては、垂涎の的の一句だろう。なにしろ正月三日に、波郷が訪ねて来たのが作者の家だったのだから……。大串章主宰の俳誌「百鳥」に「ひろば」という会員の親睦的な通信欄があり、今年(1999)の一月号に思い出とともに載せられていた。作者のコメント。「波郷先生は三日礼者ではない。朝来てずっと夜までいらっしゃる。紺絣のお対を短めに着て、店の隣の玄関からぬーっと入って来られる。トレードマークの懐手で……」。店というのは理髪店。そこで仕事をしていたのは、これまた俳句の名手であった石川桂郎である。で、妹さんがこの句の作者というわけだ。作句の年代は不詳だが、昭和十年代と思われる。古来正月三日は最もめでたい日とされ、昔の皇室では「元始祭」が行われたことから、国家の祭日であった。正月三日間を今でも休む風習は、昔の祭日が三日にもあったことの名残りだろう。そういうことでもなければ、元日だけを休んで、西洋流に二日から働くことにしても一向に構わないわけである。現に、商売人にとっての「二日」は仕事始だ。休日については、存外、こうした昔の息を引き継いでいる日が多い。ま、そんなことはともかく、句の「三日」の波郷も作者も、きっと楽しかったのでしょうね。(清水哲男)


January 0312005

 はや不和の三日の土を耕せる

                           鈴木六林男

句で「三日」といえば、今日一月三日のこと。三が日の最後の日。「三日正月」と言うように、この日までは誰もがのんびりとくつろぐ。が、作者ははやくも畑に出て耕している。家にいても、面白くないからだ。いくら年が改まろうとも、そう簡単に人間関係は改まらない。正月というのでお互いに我慢していたけれど、それも今日で限界。ぷいと家を出て、しかし行くところもないから、仕方なく畑仕事をしているという図だ。通りがかりの人から不思議そうに見られても、致し方なし。まことにもって、人間関係とは厄介なものです。同じように家を出るのなら、「顔触れも同じ三日の釣堀に」(滝春一)というふうでありたい。呑気でよろしいが、でも、これもいささか侘しいかしらん。「三ヶ日孫の玩具につまづきぬ」(青木よしを)。つまづきながらも、上機嫌なおじいちゃん。わかりますね。やっぱり「つまづ」こうがつんのめろうが、こんなふうにして家にいられるのがいちばんだ。ところで、本日の諸兄姉や如何に。私は、煙草を買いに出るくらいのものでしょうかね。ありがたし。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0312007

 人去つて三日の夕浪しづかなり

                           大伴大江丸

旦からは身内をはじめ友人、同僚などが年始で集まってくる。酒が入り、おせち料理をつつきながら話がはずむ。去年はああだった、こうだった、今年はああだろう、こうだろう、こうあれかし・・・・などと、いっぱしの楽観論や悲観論がもっともらしくいりまじる。まことにもって恒例の無責任事始め。まあ、それもいいか、正月だもの。三ケ日だもの。テレビではタレント・ゲーノー人どもが視聴者そっちのけで、われ先にと終日こけつまろびつのバカ丸出しの大騒ぎ。笑えませぬ。フツーの人間には、シラフじゃとても三日と堪えられませぬ。さて、ブラウン管のこっち側、子ガメ孫ガメ寄り集まっての無礼講のにぎわいも、さすがに三日目の夕刻ともなるとくたぶれて、一人去り二人去り、浪がひくようにさっさかひいて行く。「ハレ」の浪もようやく平常の静けさに戻る。「ケ」の生活リズムが戻ってくる。「ハレ」から「ケ」へ、その淋しいようなホッとするような気持ちは、けしていやなものではない。「夕浪」とは各家々個有の「浪」でもあるだろう。大江丸は大阪の飛脚問屋主人・大和屋善兵衛の俳号。蓼太の門人として享和・寛政年間には、大阪における実力者だったと言われる。大江丸が活躍した江戸の世も、二百年余のちの今の世も、「三日」の風情は本質的にあまり変わっていないのかもしれない。近年は元旦から営業している豪儀なデパートもあり、私の近所の巨大ショッピングセンターは、元旦から初荷を謳って営業を開始している。そんなに稼ぎなさんな。三ケ日くらい仕事を忘れてのんびりと・・・・など、世間さまは許してくれないらしい。現に行き場のない若い衆が、ウンカのごとくちゃらちゃらと群がっている。その昔、夏目漱石というオジサンはこう詠んだ、「一人居や思ふことなき三ケ日」。大江丸の「夕浪」も漱石の「一人居」も、「ハレ」から「ケ」への移行である。さて・・・・これからふらりと裏手の東京湾の「夕浪」でも、しみじみ眺めてこようっと。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


January 0312009

 三日はや木綿のやうな風とゐる

                           野木桃花

かに、年が改まったからといってすべてリセットできるわけではない。でも年末、あれこれ溜まったゴミを捨て、そちこち拭いたり磨いたりしていると、あ〜まことに不愉快、といったこびりつきが、うすくなっていくような感じがする。そうこうするうちに迎える元旦、いつもの窓から見える朝日を、初日として眺めながら、よし、と新たな気持ちにもなれる。そして正月三日。今年は明日が日曜なので、少し趣が違うむきも多いだろうけれど、さて正月気分も終わりだなという三日である。木綿のような風、というこの日常的でないちょっと不思議な表現、木綿の飾り気のなさと親しさによって、始まってゆく日常へすっと気持ちを送りこんでくれる。長期休暇を取るなどして、大きく気分転換を意識しなくても、正月という節目を利用して、自分の中のこもごもをうまく切り替え、いちはやく平常心で前を見ている作者であろう。『新日本大歳時記 新年』(2000・講談社)所載。(今井肖子)




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