January 071999
人日の夜の服寝敷く教師たり
淵脇 護
まずは、お勉強(笑)。人日(じんじつ)とは一月七日のことを言うが、なぜなのか。いまどきの句にも、よく出てくる。わからないときには、辞書を引く。でも、小さい辞書だと「一月七日のこと」としか書いてない。そこで、重たくてイヤだけど、大きな辞書を引いてみる。だが、広辞苑でも大辞林でも、満足のいく解答は得られない。そこで、「人日」は現代語としては死語に近い言葉だと知る。これもまた、お勉強の内だ。もはや「俳句ギョーカイ」の用語だなと見当をつけて歳時記をめくると、どんな歳時記にも、はたせるかな、ちゃんと定義が書いてある。詳しい説明は省くが、すなわち「中国漢代に六日までは獣畜を占い、七日に人を占ったことからの名」なのだそうである。中国の占いでは、正月七日にして、はじめて人間を注視したということだ。最初の「人の日」だった。したがって、明日八日からの新学期にそなえて、教師が服の寝敷きをするという句に、ことさらに「人日」が使われているのもうなずける。学園という人の社会に出ていくためのマナーとしては、まず身なりを整える必要がある。教師であることを忘れて過ごせた正月七日までは、同時に社会人を忘れた期間でもあった。「寝敷き(寝押し)」は慎重を要する。「寝敷き」の夜には、すでに「人の社会」がじわりと関わってきている。(清水哲男)
January 072007
人日の雨青年をおびやかす
原 裕
人も日も、どちらも深く、かけがえのない意味をもつ語ですが、それを組み合わせた言葉があるとは知りませんでした。「人日」とは、「ひとひ」ではなく「じんじつ」と読みます。不思議な響きをもった単語です。「1月7日」を意味します。手元の歳時記によりますと、「中国漢代に、6日までは獣畜を占い、7日に人を占ったことからの名」とあります。獣畜を先に置き、人をその後に置く順番には、やさしい手つきが感じられます。人を特別な存在と見ずに、生きとし生けるもののうちにふくめるという気配りを感じます。歳時記には、「この日は、人に対する刑罰を避けた」ともありました。「人」がことさらに「人」であることを意識する日なのかもしれません。その喜びと悲しみが同時に、人を襲ってくるのです。1月7日という歳の若い雨は、冷たく青年をぬらします。人の日に、青年は何におびえているのでしょうか。「人」であることの根源に向かった恐れなのでしょうか。さて、年が変わってもう7日が過ぎました。明後日からは通常の仕事に戻る方も多いことでしょう。「人の日」とは、正月気分から普通の自分に戻るための日なのかもしれません。温かなおかゆでも食べて、しゃきっとして、明日からの長い「人の日々」に備えましょう。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)
January 072014
よく食べてよく寝て人日となりぬ
青山 丈
人日の起源は、古代中国の占の書からきており、一日から六日までは家畜、七日は人を占い、当日が晴なら吉、雨なら凶とされた。江戸時代では人日は公式行事となって、七草粥を食べて邪気を祓い無病息災を祈年する祝日とされた。正月の美食で疲れた胃を休める効果もあり、現在でも七草粥は正月行事の締めくくりとして風習に残る。掲句のもうはや七日と思う感慨には、ご馳走を重ね寝正月を決め込んだのちの満ち足りた心持ちとともに、明日から始まる日常のせわしさが懐かしいような恋しいような気分も含んでいる。それは浦島太郎がおもしろおかしく竜宮で過ごした日々を捨てて故郷に帰りたくなった気持ちにも似て、安穏が幸せとは限らないという人間の面白さでもある。『千住と云ふ所にて』(2013)所収。(土肥あき子)
January 072016
人日の鳥のぼさぼさ頭かな
櫻木美保子
正月七日は「人日」なぜこのように呼ぶのか。「一日には鶏、二日に狗、三日に羊、四日に猪、五日に牛、六日に馬、七日に人を占い八日に穀を占う。毎日の天候によって動物や人の一年を占い皆、清明温和な天候であれば畜息安泰、陰寒惨烈なら疾病衰耗と為す」と平井照敏の「新歳時記」に説明がある。「人日」という言葉を知ったのは俳句を始めてからで、七日と言えば七草粥を食べ、学校が始まる日と思っていた。鳥のぼさぼさ頭と言えば、ウッドペッカーやスヌーピーのウッドストック、はたまたハシビロコウが思い浮かぶ。ぼさぼさ頭が寝起きの頭のようで愛嬌がある。きっと人間が動きだす日なんぞ鳥には関係ない、とシニカルなまなざしでのんびり眺めていることだろう。『だんだん』(2010)所収。(三宅やよい)
July 222016
昼寝覚電車戻つてゐるやうな
原田 暹
よくある錯覚。以前は酷暑のおりは疲労がたまり夜の睡眠不足を補う意味で昼寝が奨励された。今ではビルも家庭も車内でも空調が行き届き昼は安眠の機会となっての昼寝である。電車の座席はとにかく寝心地がよい。そこでついつい居眠りに陥る。心底寝入ってはいないので次は何々駅のアナウンスではちらと目が覚める。作者の場合は進行中での目覚めだろうか睡眠の中に失っていた自分を取り戻したものの自分の立ち位置がはっきりしない。動いてはいるもののさてはて戻っているような気もするしという半分だけ覚醒の状態。隣りに並走している電車があれば余計ややこしくなる。追い付いたり追い越したりしている内にとろとろと混乱して眩暈がする。ある夏の眠たい午後の昼寝覚め、突如寝覚めて乗り越しに気が付いてあわてても後の祭りである。仮にふいと飛び降りても網棚に忘れ物などをしたら大事件となってしまう。他に<人日の茶山にあそべ天下の子><梟を眺め梟から眺め><蟬時雨駐在さんの留守二日>など所収。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)
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