January 181999
いきながら一つに冰る海鼠哉
松尾芭蕉
元禄六年(1693)の作。亡くなる前年の句ということになるが、それより五年前の貞享五年(途中から元禄元年)とする説もある。いずれにしても、芭蕉晩年の軽みの境地を示す。魚屋の店先だろうか。海鼠(なまこ)が入れられた桶をのぞくと、張ってある水が寒さのために凍っている。当然、入れられているいくつかの海鼠も冰(こお)りついており、そのせいでいくつ入っているのか区別もつかない。なんとなく「一つ(一体)」のように見えてしまうのである。それも「いきながら」であるから、海鼠のグロテスクな形状と合わせてちょっぴり笑ってしまうのだが、しかし同時に、笑うだけではすまされない哀れの感情もわいてくる。この句に関連して「俳句朝日」(1999年2月号)に出ている廣瀬直人の付言は、実作者に目を開かせる。「句を作る場合には、見える表現をとか、よく見て写生をなどと言われるが、理屈はとにかくとして、この掲句のように、まず、いかにも『海鼠』らしいと感じさせることが基本になる」。なるほど、いかにも芭蕉の見たこの「海鼠」は「海鼠」らしいではないか。蛇足ながら、句尾の「哉」は「かな」と読む。(清水哲男)
December 082003
軍艦と沈んでゐたる海鼠かな
吉田汀史
季語は「海鼠(なまこ)」で冬。十二月八日と聞いて、なんらかの感慨を覚える人も少なくなってきた。かつての開戦の日だ。私の世代はまだ幼かったので、実感的に思い出せるのは七十代以上の人たちだろう。句は直接この日を詠んだものではないが、戦争の悲惨を静かに告発している意味で挙げておきたい。海深く沈没させられた軍艦の周辺に、物言わぬ海鼠が寄り添うように「沈んで」いる。多くの海鼠は陸地に近く棲息するから、句の海鼠は死んでいるのだろう。それはさながら、軍艦と運命をともにした兵隊たちの精霊のようでもあろうか。地上の人間からはとっくに忘れ去られた闇の世界に、いまなおゆらめく恨みをのんだ霊魂か。想像するだに、あまりにもいたましい情景だ。句で思い出されたのは、開戦後二年目(1943年)の今日の日付で封切られた映画『海軍』(田坂具隆監督・松竹)である。十数年前に、ビデオで見た。海軍報道部の企画で作られた映画だから、完全な国威昂揚を目的とした作品だ。鹿児島の雑貨屋の息子が家業のことを気にしつつも、お国のためにと海軍兵学校に進学する。無事卒業していまや中尉となった主人公は、十二月八日のこの日、特殊潜航艇に乗り組み、真珠湾近くの深海に身を潜めていた。作戦どおりにやがて静かに艇を浮上させ、潜望鏡で覗いた真珠湾には、空からの奇襲の被害を免れた敵艦の姿があった。ここで映画は終わる。いや、本当はこれから彼が華々しい戦果をあげるシーンがつづくのだが、戦後に米軍がこの部分のフィルムを没収して持ち帰り、行方不明というのが真相らしい。しかしここで終わっているほうが、むろん海軍情報部の意図には反しているけれど、戦争の悲惨を訴えるがごとき余韻が残る。史実はともあれ、奮戦の甲斐もなく潜航艇が大海の藻くずと化すシーンも、十分に暗示されていると思えるからだ。そこで私のなかでは、映画と掲句とが結びついた。勝手な連想でしかないことは承知だが、しばしば人のイマジネーションはこのように働く。加えて俳句の様式自体が、読者の自由な連想を喚起する装置として機能する以上、勝手な連想の居心地もよいというものだろう。『一切』(2002)所収。(清水哲男)
December 132006
滾々と水湧き出でぬ海鼠切る
内田百鬼園
海鼠(なまこ)から滾々(こんこん)と水が湧き出る――というとらえ方はあっぱれと舌を巻くしかない。晩酌をおいしくいただくために、午後からは甘いものをはじめ余分なものは摂らずに過ごそうと、涙ぐましい努力をしていたことを、百鬼園はどこかで書いていた。本当の酒呑みとはそうしたものであろう。午後の時間に茶菓を人に勧められて断わるのも失礼だし、かといって・・・・と嘆く。そんな百鬼園が冬の晩酌の膳に載せんとして海鼠に庖丁を入れた途端に、たっぷり含まれた冷たい水がドッと湧き出る。イキがいいからである。冬は海鼠をはじめ牡蠣や蟹など、海の幸がうまい時季。海鼠酢はコリコリした食感で酒が進む。百鬼園先生のニンマリとしてご満悦な表情が目に見えるようだ。この句は明治四十二年「六高会誌」に発表された。「滾々」とはいささかオーバーな表現だが、ここでは句の勢いを作り出していて嫌味がない。冴えていながら、どこかしら滑稽感も感じられる。最初から「滾々・・・」という句ではなかった。初案は「わき出づる様に水出ぬ海鼠切る」だった。「わき出づる様に水出ぬ」では説明であり、「水」は死んでしまっているから、海鼠もイキがよろしくない。しかも「出づる」「出ぬ」の重なりは無神経だ。思案の後「滾々」という言葉を探り当てて、百鬼園先生思わず膝を打ったそうである。志田素琴らと句会「一夜会」をやりながら、独自のおおらかな句境を展開した。しかし、本人は当時の文壇人の俳句隆盛に対しては懐疑的で、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えないであろう」と言い、「余り流行しないうちに下火になる事を私は祈っている」とも言い切るあたりは、まあ、いかにもこのご仁らしい。ちなみに漱石や龍之介の俳句に対する百鬼園の評価は高くはなかった。『百鬼園俳句帖』(ちくま文庫)所収。(八木忠栄)
December 252006
安々と海鼠の如き子を生めり
夏目漱石
漱石の妻・鏡子は一度流産している。この句はその後に長女・筆子を生んだときのもので、作者の安堵ぶりがうかがえる。人間の子を「海鼠(なまこ)」みたいだとは、いくら何でもひどいじゃないか。そう思いたくもなるのだが、このときの漱石は気もそぞろ。今度は無事に生まれてくれよと、生まれるまで落ち着けなかった。当時は自宅出産だから、家の中を襖越しにただうろうろするばかりの男としては、元気な産声を耳にし、生まれたばかりの赤子を見せられて、ほっとしたあまりに思わずも本音が出たというところだろう。人間、安心すると、「なんだ、たいしたことなかったじゃないか」との安堵感から、憎まれ口の一つも叩きたくなるものなのだ。言い換えれば、普段通りの心の余裕のある顔つきで表現したくなってしまう。この句はそういう産物で、それまでの狼狽ぶりが書かれていないだけに、かえってそれをうかがわせる何かがあるではないか。漱石先生の頭は隠されているけれど、尻は立派に出てしまっているのだ。今日はキリストの誕生日。誰もそんな想像はしないだろうが、彼もまた、海鼠のように生まれてきたのかしらん。ところで「海鼠」は冬の季語だが、筆子の誕生は五月だった。したがって揚句は夏の句ないしは無季に分類すべきなのだろうが、歳時記の便宜上「冬季」に置いておきたい。この句に限らず、歳時記の編纂には、しばしばこうした悩ましさがつきまとう。坪内捻典・あざ蓉子編『漱石熊本百句』(2006・創風社出版)所収。(清水哲男)
January 272011
白髪やこれほどの雪になろうとは
本村弘一
白髪になるのは個人差があるようで、はや三十歳過ぎから目立ちはじめる人もいれば六十、七十になっても染める必要もなく豊かに黒い髪の人もいる。加齢ばかりでなく苦労が続くと髪が白くなるとはよく言われることだけど、どうして髪が白くなるのかそのメカニズムはよくわかっていないようだ。掲句は「白髪や」で大きく切れているが、「これほどの雪」が暗い空を見上げての嘆息ともとれるし人生の来し方行く先への感慨のようにもとれる。降りしきる雪の激しさと白髪との取り合わせが近いようで、軽く通り過ぎるにはひっかかりを感じる。俳句の言葉とはすっかり忘れ果てたときに日常の底から浮上してきて読み手に働きかけるものだが、この句のフレーズにもそんな言葉の力を感じる。「ゆきのままかたまりのまま雪兎」「ひたひたと生きてとぷりと海鼠かな」『ぼうふり』(2006)所収。(三宅やよい)
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