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1999ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1811999

 いきながら一つに冰る海鼠哉

                           松尾芭蕉

禄六年(1693)の作。亡くなる前年の句ということになるが、それより五年前の貞享五年(途中から元禄元年)とする説もある。いずれにしても、芭蕉晩年の軽みの境地を示す。魚屋の店先だろうか。海鼠(なまこ)が入れられた桶をのぞくと、張ってある水が寒さのために凍っている。当然、入れられているいくつかの海鼠も冰(こお)りついており、そのせいでいくつ入っているのか区別もつかない。なんとなく「一つ(一体)」のように見えてしまうのである。それも「いきながら」であるから、海鼠のグロテスクな形状と合わせてちょっぴり笑ってしまうのだが、しかし同時に、笑うだけではすまされない哀れの感情もわいてくる。この句に関連して「俳句朝日」(1999年2月号)に出ている廣瀬直人の付言は、実作者に目を開かせる。「句を作る場合には、見える表現をとか、よく見て写生をなどと言われるが、理屈はとにかくとして、この掲句のように、まず、いかにも『海鼠』らしいと感じさせることが基本になる」。なるほど、いかにも芭蕉の見たこの「海鼠」は「海鼠」らしいではないか。蛇足ながら、句尾の「哉」は「かな」と読む。(清水哲男)


January 1711999

 雪の朝二の字二の字の下駄のあと

                           田 捨女

の朝。表に出てみると、誰が歩いていったのか、下駄の跡が「二の字二の字」の形にくっきりと残っている……。清新で鮮やかなスケッチだ。特別な俳句の愛好者でなくとも、誰もが知っている有名な句である。しかし、作者はと問われて答えられる人は、失礼ながらそんなに多くはないと思う。作者名はご覧のとおりだが、古来この句が有名なのは、句の中身もさることながら、作者六歳の作句だというところにあった。幼童にして、この観察眼と作句力。小さい子が大人顔負けのふるまいをすると、さても神童よともてはやすのは今の世も同じである。そして確かに、捨女は才気かんぱつの女性であったようだ。代表句に「梅がえはおもふきさまのかほり哉」などがある。六歳の句といえば、すぐに一茶の「われと来て遊べや親のない雀」を思い出すが、こちらは一茶が後年になって六歳の自分を追慕した句という説が有力だ。捨女(本名・ステ)は寛永十年(1633)に、現在の兵庫県柏原町で生まれた。芭蕉より十一年の年上であるが、ともに京都の北村季吟門で学んでいるので出会った可能性はある。彼らが話をしたとすれば、中身はどんなものだったろうか。その後、彼女は四十代で夫と死別し、七回忌を経て剃髪、出家し、俳句とは絶縁した。(清水哲男)


January 1611999

 貧乏は幕末以来雪が降る

                           京極杞陽

る雪と貧乏との取り合わせは、人間の堪える姿勢に共感が得られることから、人気句が多い。ただし、同じ貧乏とはいえ、句のように「幕末以来慣れてるよ、平気だよ」と啖呵を切られると、少しく事情は異なってくる。昭和二十年代後半の作品だから、リアル・タイムで読んだ読者は、おそらくキョトンとしたことだろう。とにかく「幕末」が利いている。怒涛のようにアメリカ仕込みの民主主義の流れが日本中を席捲しているときに、まさか「幕末」もないであろうに……。作者は、世が世であれば、豊岡藩主十四代当主であった人だ(明治四十一年生まれ)。関東大震災のときに、一人の姉を残して家族全員と死別している。そして、敗戦。したがって、この「幕末」という言葉は付け焼き刃ではない。ちゃらちゃらとアメリカに靡いていく連中に、かなわぬながらも一矢報いたいという気持ちが、血筋につながる「幕末」という、時代に遅れた刃の切っ先を閃かしたのであろう。ただ同時期の句に、いかにも家庭的な「そろばんへ四男と五男雪道を」「英語へは二男三男雪道を」が残っている。「幕末以来」という貧乏のレベルのほどがわかる。当時の庶民は、子供をそろばんや英語に通わせる家庭をさして「貧乏」とは言わなかった。でも、この句はこれでいいのである。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)




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