「パーッとやりましょう」の三木のり平さん死去。撮影時刻の遅刻名人だったとも。




1999ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2611999

 離鴛鴦流れてゆきぬ鴛鴦の間

                           矢島渚男

鴦(おしどり)は留鳥だから、山間の湖や公園の池などで一年中見ることができるが、俳句では冬の鳥としている。周囲の枯れ色に比して、雄の色彩が鮮やかで目立つことからだろう。習性としては、常に「つがい」で行動する。まさに「おしどり夫婦」なのである。ところが、作者は、いかなる事情によるものか、離鴛鴦(はなれをし)となった一羽の鳥を見つけた。見ていると、その鴛鴦は水面をすうっと滑るようにして、他のつがいの間を流れていったというのである。情景としては、それだけのことにすぎない。が、雌雄どちらかが単体になると、残されたほうが焦がれ死にするとまで言われている鳥だから、作者は大いに気にして詠んでいる。そしてこの離鴛鴦に感情移入をしていないところが、逆に句の情感を深く印象づけている。私がたまに出かける井の頭公園の池には鴛鴦が多数生息していたが、この冬はめっきり数が減ってしまった。日本野鳥の会の人に聞いてみたら、環境の変化のせいだと教えてくれた。鴛鴦が好む雑木や雑草の影が、伐採によってなくなってしまったからだという。そんなわけで、いまどきの井の頭公園池はどこか侘びしい。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


January 2511999

 寒の坂女に越され力抜け

                           岸田稚魚

体が弱っているのに、寒さのなかを外出しなければならぬ用事があり、きつい坂道を登っていく。あえぎつつという感じで歩いていると、後ろから来た女に、いとも簡単についと抜かれてしまった。途端に、全身の力が抜けてしまったというシーン。老人の句ならばユーモラスとも取れようが、このときの稚魚はまだ三十歳だった。かつての肺結核が再発した年であり、若いだけに体力の衰えは精神的にも悔しかったろう。それを「女に越され」と、端的に表現したのだ。以後に書かれたおびただしい闘病の句は、悲哀の心に満ちている。「春の暮おのれ見棄つるはまづわれか」。裏を返せば、このようなときにまず恃むのはおのれ自身でしかないということであり、この覚悟で稚魚は七十歳まで生きた。没年は1988年。私なりの見聞に従えば、男は総じて短気な感じで死んでしまう。あきらめが早いといえばそれまでだが、なにかポキリと折れるような具合だ。寝たきりになるのも、男のほうが早い。這ってでも、自分のことは自分でやるという根性に欠けている。心せねばなりませぬな、ご同輩。『雁渡し』(1951)所収。(清水哲男)


January 2411999

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日」とある。戦争中だった。当時、富山在住の作者は五十九歳。妻を亡くした翌日の吟だから、ほとんど自然に口をついて出てきた一句であろう。身構えもなければ、熟慮の跡もない。それだけに、つい昨日まで作者に話しかけていた妻の声が、私たち読者にも聞こえるような、そんな臨場感が伝わってくる。何事もなかったかのように降る雪の、昨日とかわらぬ白さが、いまさらながら目にしみるようだ。幸運なことに、私にはこの喪失感を真に味わえる体験はないのだけれど、この淡々とした句のなかに、しかし男のうろたえた気配というものだけは知覚できる気がする。句のどこにそれを感じるかと問われると困ってしまうが、一気に、しかし静かに吐き出された感慨のなかの皮膚感覚の欠落ぶりにおいて、そんな気がするということである。茫然の感覚には、生きながら死んでいるような無自覚さがあるだろうからだ。したがってこの句は、亡き妻を追悼しているというよりも、みずからの気を確かに保つためのそれのように写るのである。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)




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