January 301999
寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ
森 澄雄
寒中の鯉はじっとしていてほとんど動かず、食べず、この季節には成長がとまるらしい。私は泥臭くて好まないけれど、食べるのなら、真冬のいまどきがいちばん美味いのだそうである。同様に、厳冬の寒鮒も美味いといわれる。したがって、上掲のような句も生まれてくるわけだが、自註に曰く。「ある日ある時、飲食にかかわる人間のかなしき所業を捨てて、自ら胸中、一仙人と化して、無数の鯉を飼ってそれと遊ぶ白雲去来の仙境を夢見たのだ」(『森澄雄読本』)。俳人も人間だから(当たり前だッ)、ときに浮世離れをしたくなったということだろう。写生だの描写だの、はたまた直覚だの観照だのという浮世俳諧の呪縛から身をふりほどいて、むしろひとりぼんやりと夢を見たくなった気持ちがよく出ている。しょせん漢詩にはかなわぬ世界の描出だとは思うが、たまには不思議な俳句もよいものである。とりあえず、ホッとさせられる。(清水哲男)
November 142008
尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力
加藤楸邨
楸邨の東京文理科大学国文科時代の恩師能勢朝次が昭和三十年に逝去。氏は、楸邨のライフワークとなった芭蕉研究の師であり「寒雷」創刊号にも芭蕉論を寄稿している。前書きに「能勢朝次先生永逝 三句」とあるうちの一句。この句だけを見たら、追悼の句と思う読者がどれほどいようか。およそ追悼句というものは、渡り鳥だの露だの落花だののはかないイメージを持つ花鳥風月に故人への思いを託して詠うというのが古来より今日までの定番になっているからだ。しかし考えてみれば故人と、故人の死を悲しむ者とのかけがえのない一対一の関係と思いを定番の象徴を用いて納得しうるものか。黒い太い寒鯉の胴をぐいとちからが抜けていく。大いなるエネルギーの塊りが今鯉を離れたのだ。こういう時はこう詠むべきだとの因習、慣習を排して、一から詩形の広さを測り、そのときその瞬間の自分の実感を打ちつける。楸邨の俳句に対する考え方の原点がここにも見られる。『まぼろしの鹿』(1967)所収。(今井 聖)
January 312012
胴に鰭寄せて寒鯉動かざる
山西雅子
鯉は水温が八度以下になると冬眠する。巨木のような胴体に、ひたりと鰭を寄せている寒鯉は、今水底深くごろりと沈む。眠るといってもまぶたのない魚たちのこと、当然目は開けたままである。人間とはあまりにもかけ離れた姿であり、きわめて忠実な描写であるにも関わらず、どこか掲句の鯉に人間の懐手めいた動作を重ねてしまうのは、龍鯉や夢応の鯉魚などの伝承のはたらきも作用していると思われる。俳句を鑑賞するとき、そこに描かれた言葉以上の想像することを戒めて「持ち出し」と言うそうだが、抗いがたくそれをさせてしまうのもまた定型詩が持つ強力な磁力であろう。「星の木」(2010年秋・冬号)所載。(土肥あき子)
May 042012
骨切る日青の進行木々に満ち
加藤楸邨
前書きに「七月一日、第一回手術」1961年に楸邨は二度手術を受けている。結核治療のための胸郭整形手術。当時は胸を開いて肋骨を外したのだった。「青の進行木々に満ち」と手術への覚悟を生命賛歌に転ずるところがいかにも楸邨。悲しいときや苦しいときこそそこに前向きのエネルギーを見出していく態度が楸邨流。文理大の恩師能勢朝次の死去に際しては「尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力」と詠み、妻知世子の死去の折には「霜柱どの一本も目覚めをり」と詠んだ。俳句の本質のひとつに「挨拶」があるとするなら、身辺の悲嘆を生へのエネルギーに転化していくことこそ「生」への挨拶ではないか。『まぼろしの鹿』所収。(1967)所収。(今井 聖)
December 062015
寒鯉を抱き余してぬれざる人
永田耕衣
不条理です。高校時代に背伸びをして読んだカミュの『シーシュポンスの神話』に、こんな記述がありました。「川に飛び込むが、濡れないことを不条理という」。『異邦人』のムルソーの心理を説明している箇所でしょうが、当時は全く理解できませんでした。しかし、身の回りで時に起こる不条理な事象を見、聞くにつれ、今はカミュの不条理が腑に落ちます。さて、掲句では、寒鯉を抱いているのにぬれない人が存在することを書いているのだから、不条理です。訳がわかりません。ところが、句集では次に「亡母なり動の寒鯉抱きしむる」があったので、句意がはっきりしました。「ぬれざる人」は「亡母」のことでした。ならば寒鯉は、生前も死後も母を深く慕っている息子耕衣その人でしょう。寒鯉のように、生臭く濡れている自身を母は死んだ今でも抱きしめにやってきてくれる。三途の川の向こうは、濡れるということがないのでしょう。あの世という形而上学には、涙や汗の質感がないのかもしれません。句集には「掛布団二枚の今後夢は捨てじ」もあり、母に抱かれる夢を見ているのかもしれのせん。となれば、掲句を不条理とするのは間違いで、夢幻とすべきでしょう。『非佛』(1970)所収。(小笠原高志)
December 102015
黄金の寒鯉がまたやる気なし
西村麒麟
濁った冬の沼のふちにたたずんでいると、ぽっかり口をあけた鯉がどんよりした動きで近寄ってくる。寒中にとれる鯉は非常に味がいいというので「寒鯉」が季語になっているようだ。歳時記を見るとだいたい動きが鈍くてじっと沼底に沈んでいる鯉を描写した句が多いように思う。掲載句では「黄金」「寒鯉」「が」というガ行の響きの高まりに「また」と下五を誘い出して、何がくるかと思いきや「やる気なし」と脱力した続きようである。むだに立派な金色の鯉がぼーっと沼に沈んでいる有様が想像されてなんともいえぬおかしみがある。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)
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