1999N2句

February 0121999

 叱られて目をつぶる猫春隣

                           久保田万太郎

月。四日は立春。そして、歳時記の分類からすれば今日から春である。北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、地方によっては「二月早や熔岩に蠅とぶ麓かな」(秋元不死男)と暖かい日も訪れる。まさに「春隣(はるとなり)」だ。作者は、叱られてとぼけている猫の様子に「こいつめっ」と苦笑しているが、苦笑の源には春が近いという喜びがある。ぎすぎすした感情が、隣の春に溶け出しているのだ。晩秋の「冬隣」だと、こうは丸くおさまらないだろう。「春隣」とは、いつごろ誰が言いだした言葉なのか。「春待つ」などとは違って、客観的な物言いになっており、それだけに懐の深い表現だと思う。新しい歳時記では、この「春隣」を主項目から外したものも散見される。当サイトがベースにしている角川版歳時記でも、新版からは外されて「春近し」の副項目に降格された。とんでもない暴挙だ。外す側の論拠としては、現代人の「隣」感覚の希薄さが考えられなくもないが、だからこそ、なおのこと、このゆかしき季語は防衛されなければならないのである。(清水哲男)


February 0221999

 わが天使なりやをののく寒雀

                           西東三鬼

山修司の短歌に、「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」がある。明らかに、この句の引き伸ばしだ。きつく言えば、剽窃である。若かった寺山さんは、この他にもいくつもこういうことを企てては顰蹙をかいもしたが、どちらが私の心に残っているかというと、これまた明らかに寺山さんの歌のほうなのである。なぜなのだろうか。一つの解答を、同じ俳壇内部から上田五千石が、著書の『俳句塾』(邑書林・1992)で吐き捨てるように書いている。「三鬼句の『叙べる』弱さが流用されたのだ」と……。私は二十代の頃から三鬼が好きで、角川文庫版の句集を愛読した。絶版になってからは、同じく三鬼ファンだった若き日の車谷長吉君との間を、何度この一冊の文庫本が往復したかわからないほどだ。でも、年令を重ねるにつれて、三鬼のアマさが目につくようになってきた。あれほど読んだ文庫も、いまではなかなか開く気になれないでいる。五千石の言うことは、まことに正しいと思う。他方、読者が年令を重ねるということは、こういうことに否応なく立ち合わされるということなのでもあって、この気持ちにはひどく切ないものがある。読者の天使もまた「をののく」寒雀……なのか。(清水哲男)


February 0321999

 硝子負ひ寒波の天を映しゆく

                           田川飛旅子

を読んですぐに思い出したのは、田中冬二の「青い夜道」という初期の詩だ。少年が町で修繕した大きな時計を風呂敷包みにして背負い、田舎の青い星空の夜道を帰ってくる。ここからすぐに冬二の幻想となり、その時計が「ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ……」と、少年の背中で鳴るのである。「少年は生きものを 背負つてゐるやうにさびしい」と、詩人はつづけている。一方で掲句は幻想を書いているのではなくて、見たままをスケッチしているのだが、双方には共通したポエジーの根があると感じられる。つまり、人間が背中に大きくて重いものを背負うということ。前かがみとなって、一心に道を歩くということ。その姿を「さびしい」と共感する感性が、日常的に存在したということ。車社会ではなかった時代の人間の当たり前の物の運び方には、つらかろうとか、可哀相だとか、そういう次元を越えた「忍耐の美」としか形容できない感じがあった。その忍耐のなかにあるからこそ、時計が鳴りだすのであり、硝子(ガラス)が寒波の天を映して壮麗な寒さを告げているのだ。背負うというと、簡単なザックだけという現代では、なかなか理解されにくくなってきた感覚だろう。大きな荷物のほとんどは、みな人が背負うものであった。ついこの間までの「現実」である。(清水哲男)


February 0421999

 雨の中に立春大吉の光あり

                           高浜虚子

暦では一年三百六十日を二十四気七十二候に分け、それを暦法上の重要な規準とした。立春は二十四気の一つ。暦の上では、今日から春となる。しかし、降る雨はまだ冷たく、昨日に変わらぬ今日の寒さだ。禅寺では、この日の早朝に「立春大吉」の札を入り口に貼るので、作者はそれを見ているのだろう。寒くはあるが、真白い札の「立春大吉」の文字には、やはりどこかに春の光りが感じられるようだ。あらためて、新しい季節の到来を思うのである。実際に見てはいないとしても、今日が立春と思うだけで、心は春の光りを感受しようとする。立春は農事暦のスタート日でもあり、「八十八夜」も「二百十日」も今日を起点として数える。それから、陰暦での今日はまだ十二月十八日と、師走の最中だ。閏(うるう)月のある(今年は五月が「五月」と「閏五月」の二度あった)年の立春は、必ず年内となるわけで、これを「年内立春」と呼んだ。正月のことを「新春」「初春」と「春」をつけて呼ぶ風習は、このように立春を意識したことによる。ちなみに、今度の陰暦元日は、再来週の陽暦二月十六日だ。立春を過ぎての正月だから、文字通りの「新春」であり「初春」である。以上、誰もが昔の教室で習った(はずの)知識のおさらいでしたっ(笑)。(清水哲男)


February 0521999

 受験期や多摩の畷の土けむり

                           中 拓夫

れでは、いきなり問題です。「句の『畷』に読み仮名をふり、その意味を書きなさい」……。お互いに苦労しましたねえ、こんな問題に。もう二度とご免です。正解は、読み仮名が「なわて」、意味は「あぜ道」か、あるいは「まっすぐな長い道」です。普通「畷」は「あぜ道」なのですが、句の場合には「まっすぐな長い道」と解したほうがよいと思います。たとえば、東京は多摩川土手のまっすぐな長い道などを想起してください。春先、多摩地方の関東ローム層特有の土を強風が巻き上げる様子には、とにかく凄まじいものがありました。空が灰色になってしまうのですから、まっすぐな長い道も遠くが見えなくなるくらいに煙ってしまうのでした。受験の句というと、受験そのものの哀歓を詠む句が多いなかで、それを風景につなげた季語として捉えたところに、面白さが感じられます。明るさもありますが、かえって切ない気分も感じられます。毎年、多摩地方に土けむりが舞い上がるころともなると、作者は自分が受験した昔のことを思い出すのでしょう。それで、受験期の風景を「土けむり」に代表させたのでしょう。もっとも、現在では「畷」もほとんどがアスファルトに覆われてしまい、「土けむり」よりも、むしろ排気ガスのほうが問題になってはいるのですが……。(清水哲男)


February 0621999

 水温み頁ふえたり週刊誌

                           三宅応人

刊誌は気が早いから、暦の上で春ともなれば、すぐに「春爛漫・男と女の事件簿大特集」などと銘打って増ページ号を出したりする。作者がいう週刊誌がどんな種類のものかは知る由もないけれど、普段より分厚い雑誌を購ってなんとなくトクをしたような気分と「水温み」とが、ほんわかと照応している。週刊誌と季節感との取り合わせも、珍しい。ただし、私はひところ週刊誌の仕事をしていたことがあるので、いまもってこういう気分にはなれないでいる。「増ページ」と聞くだけで、輪転機の回る直前まで必死に原稿を書いている人々の姿を思い浮かべてしまうからだ。「大変だなあ」という感情のほうが、先に立つのである。若くなければ、とてもあんな苛酷な仕事はこなせない。身体の調子が悪いときなどは、実際泣きそうになる。それはともかくとして、掲句の「頁」という漢字の読み方をご存じだろうか。句では当然のように「ページ」と読ませているが、「ページ」は英語だから、正しい読み方ではありえない。では、何と読むのか。私の交友範囲では、これまでにすらりと読めた人はひとりもいなかった。ぜひとも、お手元の辞書を引いてみていただきたい。(清水哲男)


February 0721999

 春寒し水田の上の根なし雲

                           河東碧梧桐

会人にとってはもはや懐しい風景だが、全国にはいまでも、句そのままの土地はいくらもある。どうかすると、真冬よりも春先のほうが寒い日があって、そういう日には激しい北風が吹く。したがって、雲はちぎれて真白な「根なし雲」。乾いた水田がどこまでも連なり、歩いていると、身を切られるように寒い。山陰で暮らした私の記憶では、学校で卒業式の練習がはじまるころに、この風がいちばん強かった。「蛍の光」や「仰げば尊し」は、北風のなかの歌だった。吉永小百合とマヒナ・スターズの『寒い朝』という歌に、北風の吹く寒い朝でも「こころひとつで暖かくなる」というフレーズがあったが、馬鹿を言ってはいけない。そんなものじゃない。田圃のあぜ道での吹きさらしの身には、「こころ」などないも同然なのである。どこにも風のことは書かれてはいないけれど、私などにはゾクゾクッとくる句だ。こんな日に運悪く「週番」だと、大変だった。誰よりも早く学校に行って、みんなが登校してくるまでに大火鉢に炭火をおこしておくのが役目だったからだ。でも、いま考えれば、先生の立ち合いもなく小学生に勝手に火を扱わせていたわけで(しかも木造の校舎で)、うーむ、昔の大人は度胸があったのだなアと感服する。(清水哲男)


February 0821999

 春空に鞠とゞまるは落つるとき

                           橋本多佳子

(まり)とあるけれど、手鞠の類ではないだろう。私が子供だったころ、女性たちはキャッチ・ボールのことを「鞠投げ」と呼んだりして、我等野球小僧をいたく失望させたことを思い合わせると、おそらく野球のボールだと思われる。句の鞠の高度からしても、手鞠ではありえない。カーンと打たれた野球ボールが、ぐんぐんと昇っていく。もう少しで空に吸いこまれ、見えなくなりそうだなと思ったところで、しかし、ボールは一瞬静止し、今度はすうっと落ちてくる。春の空は白っぽいので、こういう観察になるのだ。それにしても、「鞠とゞまるは落つるとき」とは言いえて妙である。春愁とまではいかないにしても、暖かくなりはじめた陽気のなかでの、一滴の故なき小さな哀しみに似た気分が巧みに表出されている。昔の野球小僧には、それこそ「すうっと」共感できる句だ。「鞠」から「ボール」へ、ないしは「球」へ。半世紀も経つと、今度は「鞠」のほうが実体としても言葉としても珍しくなってきた。いまのうちに注釈をつけておかないと、他にもわからなくなりそうな句はたくさんある。俳句であれ何であれ、文学に永遠性などないだろう。いつか必ず「すうっと」落ちてくる。(清水哲男)


February 0921999

 風花やまばたいて瞼思い出す

                           池田澄子

空をバックに、ひらひらと雪片が舞い降りてくることがある。これが「風花」。不意をつかれて、作者は思わずも瞼(まぶた)を閉じたのだが、直後に、普段は意識したこともない瞼の存在を確認している。たしかに、誰にでも同種の体験はありそうだ。そして、その確認のありようを、いささかのんびりとした調子で「思い出す」と言ったところに、作者ならではのウイットが感じられる。味がある。ところで、風花と聞いて、それこそ「思い出す」のは、木下恵介監督の映画『風花』(1959・松竹大船)だ。ラスト・シーン近くで、見事な風花が実写で舞っていた。ロケーションは信州だったが、CGがない時代に、あの映像はどうやって撮影したのだろう。いつ來るともしれない風花を、監督以下、毎日待ちつづけたのだろうか。当時の映画現場の常識からすると、こうした場合、とりあえず風花だけを追い求める別チームを編成していたはずではある。が、それにしても偶然に頼るしかない映像をちゃんと入れ込んでしまったのだから、木下恵介の運の強さも相当なものだったと思う他はない。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


February 1021999

 ごみ箱のわきに炭切る余寒かな

                           室生犀星

寒(よかん)は、寒が明けてからの寒さを言う。したがって、春の季語。「ごみ箱」には、若干の解説が必要だ。戦前の東京の住宅地にはどこにでもあったものだが、いまでは影も形もなくなっている。外見的には真っ黒な箱だ。蠅が黒色を嫌うという理由から、コールタールを塗った長方形の蓋つきのごみ箱が各家の門口に置かれていた。たまったゴミは、定期的にチリンチリンと鳴る鈴をつけた役所の車が回収してまわった。当時は紙類などの燃えるゴミは風呂たきに使ったから、「燃えないゴミ専用の箱」だったとも言える。句の情景については、作者の娘である室生朝子の簡潔な文章(『父犀星の俳景』所載)があるので引いておく。「炭屋の大きな体格の血色のよいおにいちゃんが、いつも自転車で炭を運んできていたが、ごみ箱のそばに菰を敷いて、桜炭を同じ寸法に切るのである。(中略)煙草ひと箱ほどの寸法に目の細かい鋸をいれて三分の一ほど切ると、おにいちゃんは炭を持ってぽんと叩く。桜炭は鋸の目がはいったところから、ぽんと折れる。たちまち形のよい同じ大きさの桜炭の山ができる。その頃になると、書斎の大きな炭取りが菰の隅におかれる。おにいちゃんは山のように炭取りにつみ上げたあと、残りを炭俵の中につめこむのである。炭の細かい粉が舞う。……」。『犀星発句集』(1943)所収。(清水哲男)


February 1121999

 雪の夜長き「武蔵」を終わりけり

                           徳川夢声

川夢声というひとがいた。ラジオがまだ娯楽の王座にあった時代、夢声の朗読は「話術の至芸」として日本国中知らないものはなかった。特に有名だったのが吉川英治の『宮本武蔵』の朗読で、その本物を聞いたことがない田舎の子供でも口真似ができたほどである。ラジオではNHKで昭和14年から15年まで続き、その後戦時国民意識高揚に18年から20年1月15日まで続いた。この句はその最後の日に作られたものである。夢声は俳句好きで久保田万太郎の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。日記代わりに作ったので膨大な凡作の山であるが、そこがいかにも夢声らしい。俳号・夢諦軒。「武蔵」の朗読は戦後復活し、昭和36年から38年に「ラジオ関東」で放送され、レコードになった。私達が聞いたのはそれかもしれない。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。(井川博年)


February 1221999

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

                           与謝蕪村

明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。(清水哲男)


February 1321999

 芹つみに国栖の処女等出んかな

                           榎本星布

本星布(せいふ・1732-1814)は女性。武蔵国八王子(現・東京都八王子市)生まれ、加舎白雄門。古典の教養を積んだ人で、私のように朦朧とした人間にも、この句のおおらかさは万葉の時代を想起させる。上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)で勉強したところによれば、『万葉集』巻十の春相聞「国栖(くにす)らが若菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」を踏まえている。国栖(くず)は奈良県吉野川上流の集落名で、奈良・平安時代を通じて宮中の節会に笛などの演奏で参加を認められていたという。その意味では、由緒正しい伝統のある土地柄なのだ。ところで、句は見られるとおり、踏まえているといっても、恋の心を踏んでいるわけではない。明るくおおらかな若菜摘みの情景だけを借りてきて、みずからの晴朗な心映えを伝達しようとしている。したがってここで注目しておきたいのは、万葉の情景を拝借してまでも、このようなおおらかさを歌い上げておこうとした星布の内心である。いわば「かりそめの世界」に無理にも遊ぼうとした作者の、現世に対する苛立ちを逆に感じてしまうと言ったら、深読みに過ぎるだろうか。あまり上手ではない句だけに、気にかかるところだ。「処女」は「おとめ」と読む。(清水哲男)


February 1421999

 辞すべしや即ち軒の梅を見る

                           深見けん二

家を訪問して辞去するタイミングには、けっこう難しいものがある。歓待されている場合は、なおさらだ。「そろそろ……」と腰を上げかけると、「もう少し、いいじゃないですか」と引き止められて、また座り直したりする。きっかけをつかみかねて、結局は長居することになる。酒飲みの場合には、とくに多いケースだ。自戒(笑)。句のシチュエーションはわからないが、作者は上手なきっかけを見つけかけている。「辞すべしや」と迷いながら、ひょいと庭を見ると、軒のあたりで梅がちらほらと咲きはじめていたのだ。辞去するためには、ここで「ほお」とでも言いながら、縁側に立っていけばよいのである。そしてそのまま、座らずに辞去の礼を述べる……。たぶん、作者はそうしただろう。こうした微妙な心理の綾をとどめるのには、やはり俳句が最適だ。というよりも、俳句を常に意識している心でなければ、このような「キマラないシーン」をとどめる気持ちになるはずもないのである。いわゆる「俳味」のある表現のサンプルのような句だと思う。『父子唱和』(1956)所収。(清水哲男)


February 1521999

 雪降るとラジオが告げている酒場

                           清水哲男

に一度の自句自解。といって、解説するに足るような句ではない。読んだまま、そのまんま。なあんだ、で終わりです。新宿駅のごく近く(徒歩3分ほど)に「柚子」という酒場がある。「天麩羅」と難しい漢字で書いてある看板を見ると、物凄く高そうな店だ。正常な神経の持ち主ならば、ヤバイと敬遠するロケーションにある。が、ある夜とつぜんに、無謀にも辻征夫が(酔った勢いで)踏み込んで、めちゃくちゃに安いことを発見してきた。以来、この店は私たちの新宿での巣となった(みんな、安いなかでも高い売り物の天麩羅は食べずに、もっぱら鰯の丸干しを食べている)。その店で思いついた句だ。めちゃくちゃに安い店だけに、有線放送などという洒落れたメディアとは縁がない。開店中は、ずっとラジオをかけている。要するに、トランジスター・ラジオが出回りはじめたころの酒場と同じ雰囲気なのだ。飲んでいるうちにラジオなぞ耳に入らなくなるが、はたと音楽が止んでニュースや天気予報の時間になると、半分は職業病から、私の耳はそちらに引き寄せられる。で、句のような場面となり、別になんというわけでもないのだけれど、不意に昔の山陰の雪景色が明日にでも見られそうな気分になったという次第。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(角川ミニ文庫・1997)所載(と、実は当ページの読者の方から教えていただいたのですが、本人は呑気にも未確認です)。(清水哲男)


February 1621999

 道ばたに旧正月の人立てる

                           中村草田男

陽暦の採用で、明治五年(1872)の12月3日が明治六年の元日となった。このときから陰暦の正月は「旧正月」となったわけだが、当時の人々は長年親しんできた陰暦正月を祝う風習を、簡単に止める気にはなれなかったろう。季節感がよほど違うので、梅も咲かない新正月などはピンとこなかったはずである。私が八歳から移り住んだ山口県の田舎では、戦後しばらくまでは「旧正月」を祝う家もあった。大人たちが集まって酒を飲んでいたような記憶があるし、「隣りより旧正月の餅くれぬ」(石橋秀野)ということもあった。祝うのは、たいていが旧家といわれる大きな家だった。作者は、そんな家の人が晴れ着を着て「道ばた」にたたずんでいる光景を目撃している。そして、今が旧正月であることを思い出したのだ。「旧正月」という季語は、非常に新しい季語でありながら、歳月とともにどんどん色褪せていったはかない季語でもある。句の「旧正月の人」とは、だから私には「旧正月」という季語を体現しているような、どこか「はかない人」のように思われてならない。(清水哲男)


February 1721999

 冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす

                           松尾芭蕉

状しておけば、冬に咲く牡丹(ぼたん)を見たことがない(東京では上野で見られるようだが……)。仕方なく図鑑の写真で見ると、雪のなかで藁(わら)のコモをかぶり、鮮やかな赤い花をつけている。冬牡丹(寒牡丹)は、庭などに植えられる普通の牡丹の「二季咲き性の変種」で、美しく咲かせるためには春と晩夏の摘蕾が必要だという。つまり、かなり無理をさせて冬場に咲かせてきた花である。温室栽培など考えられなかった芭蕉の時代の「冬牡丹」は、したがってまことに珍重すべき花だったろう。その美しさを表現するのに、芭蕉も最大級の美しい言葉を使って応えている。情景としては、冬の牡丹に見惚れていると、どこからか千鳥の声が聞こえてきたという場面。これだけでも十分に句になるところだが、四十一歳の芭蕉はあまりの花の美しさに、もうひとつ大きく振りかぶった。「これはまるで、雪中で鳴くほととぎすみたいではないか」と。ほととぎすが厳冬に鳴くわけもないが、本来の牡丹の季節に鳴くほととぎすが、今、この寒さのなかで鳴いているような美しさだと述べたのである。もちろん「鳴いて血を吐くほととぎす」の「赤」も意識している。あざとい表現かもしれないが、私は好感を持つ。だから、冬牡丹を見たこともないのに、ここに書きつけておきたいと思った。句の前書に「桑名本當寺(ほんとうじ)にて」とある。(清水哲男)


February 1821999

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな

                           黒柳召波

っと、どっこい。すとんと落ちかかった花を、かろうじて葉で抱きとめている椿の図。椿は万葉の昔から詠まれてきたが(しかも、落ち椿の詩歌が多いなかで)、このように途中で抱えられた椿を詠んだ人は少ないだろう。「かかへたる」という葉の擬人化もユーモラスで、召波の面目躍如というところ。物事を「よく見て、きちんと詠む」のは俳句作家の基本である。したがって句を作る人たちは、まず「よく見る」ことの競争をしているようなもので、その競争に勝てば、とりあえず駄句は避けられる理屈となる。この句などは、そんな競争に勝つための目のつけどころのお手本だ。こんなふうに詠まれてみて、しまった口惜しいと思っても、後の祭り……。客観写生での勝負には、常に「コロンブスの卵」的な要素がつきまとうのである。だからこそ、常日頃から「よく見」ておく必要があるというわけだ。作者は江戸期の人だから、この椿は和名を「ツバキ」といった「薮ツバキ」のこと(だと思う、あくまでも推定だが)。いまでは椿の園芸品種も多種多様であり目移りするほどだけれど、いろいろ見てきたなかで、結局はどこにでもある「薮ツバキ」の素朴さを、私は好きだ。(清水哲男)


February 1921999

 しやがむとき女やさしき冬菫

                           上田五千石

語ではあるが、冬菫というスミレの品種はない。春に咲くスミレが、どうかすると晩冬に咲くこともあり、それを優雅に呼称したものである。もとより珍しいので、見つけた女性はしゃがみこんで見ている。そのしゃがむ仕草を、作者の五千石は女性「一般」のやさしさの顕れと見て、好もしく思っている。ところが、この句の存在を知ってか知らずか、池田澄子に「冬菫しゃがむつもりはないけれど」の一句がある。昨年だったか、両句の存在を知ったときに、思わず吹き出してしまった。こいつは、まるで意地の張り合いじゃないか……などと。五千石は他界されているので、わずかな知己の間柄(たった一度、テレビの俳句番組でご一緒しただけ)ではある池田さんに電話をかけて聞いてみようかなと思ったりしたのだが、やめた。これは両句とも、このままで置いておいたほうが面白かろうと、なんだかそんな気がしたからであった。人、それぞれでよい。詮索無用。人の「やさしさ」を感じる心にしても、しょせんは人それぞれの感じ方にしか依拠できないのだから。(清水哲男)


February 2021999

 鴬の身を逆にはつね哉

                           宝井其角

来曰「角(其角)が句ハ春煖の亂鴬也。幼鴬に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし」(『去来抄』)とあって、この句は去来が痛烈に批判したことでも有名になった。「はつね」というのだから、この鴬はまだ幼いはずだ。そんな幼い鴬が、身をさかさまにして鳴くなどの芸当ができるわけがない。「凡物を作するに、本性をしるべし」とぴしゃりと説教を垂れてから、其角ほどの巧者でもこんな過ちを犯すのだから、初心者はよほど気をつけるようにと説いている。理屈としては、たしかに去来のほうに軍配は上がるが、しかし、ポエジー的には其角の「曲」のほうが勝っている。春いちばんに聴いた鴬の姿は事実に反するとしても、作者の楽しげな気分が活写されているではないか。このように其角には、客観写生をひょいと逸脱するところがあり、昔からそこが「よい」という読者と、そこが「駄目」という読者がいる。私は「よい」派ですが、あなたはどうお考えでしょうか。『去来抄』の鴬の句で評判がよいのは、なんといっても半残の「鴬の舌に乗てや花の露」だ。「てや」がよい、一字千金だと去来が言い、丈草にいたっては「てやといへるあたり、上手のこま廻しを見るがごとし」と変な讃め方までしている。(清水哲男)

[早速、読者より]「我が家で飼ってる鶯は幼鶯ですが、逆さで鳴いたりしてますけど・・・。むしろ、年とってるヤツの方が落ち着いてるせいかそんなことしないみたい」。となれば、去来はピンチですね。ありがとうございました。


February 2121999

 如月や日本の菓子の美しき

                           永井龍男

いものは苦手なので、めったに口にすることはない。が、たしかに和菓子は美しく、決して買わないけれど(笑)、ショー・ケースをのぞきこんだりはする。句は、ひんやりとした和菓子の感じを如月(きさらぎ)の肌寒さに通じ合わせ、その色彩の美しさに来るべき本格的な春を予感させている。見事な釣り合いだ。手柄は「和菓子」といわずに「日本の菓子」と、大きく張ったところだろう。「よくぞ日本に生まれけり」の淡い感慨も、ここから出てくる。観賞としてはこれでよいと思うが、ちょっと付言しておきたい。すなわち、私のなかのどこかには、このような美々しい句にころりとイカれてはいけないという警戒感が常にあるということだ。「日本」という表現に国粋感覚を嗅ぎ取るというようなことではなくて、美々しさの根拠を「日本」という茫漠たる概念に求めて、その結果がこのようにぴしゃりとキマる詩型への怖れとでもいおうか。私などが書いている詩では、とてもこのようなおさめかたは不可能である。このことは俳句という詩型のふところの深さを示すとも取れようが、他方では、曖昧さを自己消滅させる機能が自然と働く詩型だと言うこともできるだろう。かつて桑原武夫が「第二芸術」と評したのは、言葉を換えれば、こういうことからだったのではないかと思ったりもする。俳句はコワい。(清水哲男)


February 2221999

 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

                           中村苑子

妻。単に結婚している女性を言うにすぎないが、たとえば「既婚女性」や「主婦」などと言うよりも、ずっと人間臭く物語性を感じさせる言葉だ。それは「人妻」の「人」が、強く「他人」を意味しており、社会的にある種のタブーを担った存在であることが表示されているからである。もとより、この言葉には、旧弊な男中心社会の身勝手な考えが塗り込められている。最近は、演歌でもめったに使われなくなったように思う。その意味では、死語に近い言葉と言ってもよいだろう。作者は女性だが、しかし、ほとんど男のまなざしで「人妻」を詠んでいるところが興味深い。春の日の昼下がり、遠くからかすかに喇叭(ラッパ)の音が流れてきた。彼女には、戸外でトランペットか何かの練習に励む若者の姿が想起され、つい最近までの我が身の若くて気ままな自由さを思い出している。といって、今の結婚生活に不満があるわけではないのだけれど、ふと青春からは確実に隔たった自分を確認させられて、ちょっぴり淋しい気分に傾いている。遠くの喇叭と自分とを結ぶか細い一本の線、これすなわち「春愁」の設計図に不可欠の基本ラインだろう。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


February 2321999

 東京の雪ををかしく観て篭る

                           山形龍生

前市から出ている日刊紙「陸奥新報」に、藤田晴央君の詩集『森の星』(思潮社)の書評を書いた。掲載紙(2月16日付)が送られてきて、一面の記事で津軽の雪の凄さに驚いていたら、片隅に俳句のコラム(福士光生「日々燦句」)があって、この句が載っていた。以下、福士氏の解説を引用しておく。「映像は、雪に襲われた都民の醜態・不様。「観て」を--対岸の火事を囃す群衆のように--と解せば「をかし」は不様に向けたものだが、それでは雪国に住む者の狭量。雪に対して用心深い津軽人の作者には、不様の原因である無防備が不思議でならないのだ」。「都民の醜態・不様」とはいささかケンのある物言いだが、なるほど、雪国の人からこのように言われても仕方のないところは、たしかにある。ただし、この句は「無防備が不思議」などとおためごかしを言っているのではなくて、わずかの雪に滑ったり転んだりとあわてふためく都民の姿が、単純に可笑しいと笑っているのである。この笑いには皮肉も風刺も、そしてなんらの敵意も含まれてはいない。素直で素朴な笑いなのだ。そう読まないと、句がかわいそうである。「篭る」は「こもる」。新聞記事に戻れば、2月15日の青森市の積雪132センチは「平成で最高」とあった。(清水哲男)


February 2421999

 春愁の中なる思ひ出し笑ひ

                           能村登四郎

愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)


February 2521999

 雨はじく傘過ぎゆけり草餅屋

                           桂 信子

餅屋だから、そんなに大きな店ではない。店の土間と表の通りとが、そのまま地つづきになっているような小さな店を想像した。観光地に、よく見られる店だ。外は春雨。作者が店内で草餅を選んでいると、傘に雨粒を弾かせながら、草餅など見向きもせずに通り過ぎて行った人がいたというのである。雨を弾く傘ということは、コウモリ傘などではなくて、油紙を張った昔ながらの唐傘だろう。それもこの句の場合には、油紙の匂いがプンと鼻をつくような新しい唐傘が望ましい。草餅に春を感じ、通り過ぎて行った人の傘の音にも春を感じと、この句は春の賛歌に仕上がっている。外光的には暗いのだけれど、だからこそ、かえって春の気分が充実して感じられる。草餅は、大昔には春の七草の御行(母子草)を用いたとも聞くが、現在では茹でた蓬(よもぎ)を搗き込んで餅にする。子供のころに住んでいた田舎は蓬だらけだったから、草餅の材料には不自由しなかった。よく食べたものだが、草餅のために摘んだ程度で息絶えるようなヤワな植物ではない。こいつが大きくなると強力な根が張ってきて、引っこ抜こうにも簡単には抜けなくなる。農家の敵だった。草餅を見かけると、つい、そんなことも思い出される。『草樹』所収。(清水哲男)


February 2621999

 もの忘れするたび仰ぐ春の山

                           黛 執

かにもおおどかで、優しい感受性のある黛執(まゆずみ・しゅう)の世界。俳句もよくした映画監督の五所平之助に手ほどきを受け、すすめられて「春燈」の安住敦に師事したというキャリアを知れば、大いに納得のいく句境である。もの忘れをするたびに、なんとなく春の山を仰いでしまう。作者は湯河原(神奈川県)の在だから、湯河原の山だろう。ただこれだけのことなのであるが、記憶という人為的かつコシャクな営みを、芒洋たる春の山に照らしているところに、なんとも言えない人柄の良さを感じる。映画俳優でいえば、たとえば笠智衆のような人が詠んだら似合いそうな句だと、私には写る。諸作品中の傑作とは言い難いけれど、このように作者の人柄を味わうことができるのも、俳句を読む楽しさの一つだ。話は変わるが、私の「もの忘れ」は三十代後半くらいからはじまった。映画批評なども書いていたので、それまでには絶対に忘れるはずもない俳優の名前が出てこなくなったりしだして、愕然とした。その俳優の仕草や顔もはっきり浮かぶのに、どうしても名前が思い出せない。振り仰ぐ山もなかったので、目がテンになるばかり。容赦なく、迫り來る締切。ついには川本三郎君につまらない電話をしたりして……というようなこともあったっけ。いずれ「もの忘れ論」を書きたいので後は省略するが、言えることは、そんなときに、まずは作者のように泰然としていることが肝要だということである。『春野』所収。(清水哲男)


February 2721999

 妻留守に集金多し茎立てる

                           杉本 寛

は「くき」の古形で「くく」と読む。茎立(くくだち)は、春になって大根や蕪などが茎をのばすことで、この茎が「とうが立つ」と言うときの「とう」である。こうなったら、大根だと「す」が入って不味くなるので食べるわけにはいかない(人間だと、どうなるかは関知しない……)。農家では、種を取るために、わざと茎立のままに放置しておく。自註がある。「たまの休日。一人で留守居をしていると何故か客が多い。客といっても、集金・勧誘の類。折角読書をと思っても興がのらず、庭を眺めるだけ」。昭和57年(1982)の作品だ。当時はまだ、そんなに諸料金の銀行引き落としシステムが普及していなかったので、休日の亭主族はこんなメに会うことが多かった。庭の植物の茎立さながらに、われと我が身も「妻」に放置されたような苦い笑いが込められている。私にも、もちろん覚えがある。しつこい新聞の勧誘に粘り強くつきあって、ついに撃退(失礼っ)に成功したと思ったら、勧誘のお兄さんの捨てぜりふがイマイマしかった。「そうですねえ。ご主人に『アサヒ・シンブン』は難しすぎるかもしれませんねえ」だと。よくも言いやがったな。読書に戻るどころではない。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


February 2821999

 尾の切れし凧のごとくに二月終ふ

                           有賀充惠

の切れた凧は、くるくると回転しながら急速に舞い落ちてくる。そのように、あれよあれよと思う間もなく、二月が終わってしまった……。上村占魚がこの句について「一本調子の表現がいい」と言っているが、まことに適切な評言だ。農村にいた子供のころ、一月は「去(い)ぬ」、二月は「逃げる」、三月は「去る」と教わった。それほどに、この三カ月は短く感じられるということだ。二月は日数が少ないこともあるけれど、農家にとっては、来るべき農繁期までの休息の時期だから、なるべく休息日が長くあってほしいという願望が作用するので、時間の経過が早く感じられたのだろう。ご承知のように、旧暦での二月は「大の月」だと三十日まである。ちなみに、今年は二十九日まで。だから、昔の人はとくに二月の日数が短いと思っていたわけではなく、その意味で古句を読むときには注意が必要だろう。宝井其角の命日が、実はこの二月三十日(二十九日説もあるが)で、いまの暦だと彼の命日は永遠にやってこない理屈だ。いつまでも、死んでないことになってしまう。(清水哲男)




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