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February 0621999

 水温み頁ふえたり週刊誌

                           三宅応人

刊誌は気が早いから、暦の上で春ともなれば、すぐに「春爛漫・男と女の事件簿大特集」などと銘打って増ページ号を出したりする。作者がいう週刊誌がどんな種類のものかは知る由もないけれど、普段より分厚い雑誌を購ってなんとなくトクをしたような気分と「水温み」とが、ほんわかと照応している。週刊誌と季節感との取り合わせも、珍しい。ただし、私はひところ週刊誌の仕事をしていたことがあるので、いまもってこういう気分にはなれないでいる。「増ページ」と聞くだけで、輪転機の回る直前まで必死に原稿を書いている人々の姿を思い浮かべてしまうからだ。「大変だなあ」という感情のほうが、先に立つのである。若くなければ、とてもあんな苛酷な仕事はこなせない。身体の調子が悪いときなどは、実際泣きそうになる。それはともかくとして、掲句の「頁」という漢字の読み方をご存じだろうか。句では当然のように「ページ」と読ませているが、「ページ」は英語だから、正しい読み方ではありえない。では、何と読むのか。私の交友範囲では、これまでにすらりと読めた人はひとりもいなかった。ぜひとも、お手元の辞書を引いてみていただきたい。(清水哲男)


July 2472003

 葛桜雨つよくなるばかりかな

                           三宅応人

葛桜
語は「葛桜(くずざくら)」で夏。当歳時記では「葛饅頭」の項目に入れておく。和菓子にうといので間違っているかもしれないが、一般的に葛饅頭を桜の葉で包んだものを葛桜と言うようだ。昔は東京名物だったという。「葛ざくら東京に帰り来しと思ふ」(小坂順子)。掲句の作者は小旅行の途中でもあろうか。折悪しくも雨模様の昼下り。一休みしようと入った店で、季節感の豊かな葛桜を注文したのだが、表を見るとだんだん雨は「つよくなるばかり」である。葛桜は見た目にも涼味を誘う菓子だから、すっきり晴れていてこその味なのに、降りこめられての葛桜はいわばミスマッチ。いっそう情けないような気分になって、降りしきる雨を恨めしそうに見やっている。さて、この店を出てからどうしようか……。私は雨男なので、似たようなことはしょっちゅう体験してきた。もはや、情けないとも感じなくなってしまった(苦笑)。今年の梅雨は長い。会社の暑中休暇を早めに取ったサラリーマンのなかには、こんなメにあっている人も多いのではなかろうか。逆に言えば、葛桜などを商っている人たちはもちろん、夏物商戦をあてこんでいた業者は大変である。東京の週間天気予報を見ると、晴れマークは来週の月曜日以降にしか出ていない。梅雨が明けると言われる雷も、鳴る気配すらない。やれやれ、である。なお、写真は「磯子風月堂」のHPより借用しました。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0632006

 水温み頁ふえたり週刊誌

                           三宅応人

語は「水温む」で春。いつ頃の句だろうか。時代感覚とは面白いものだ。もはや、この句に「現代」を感じる人はいないだろうが、でも、この句が多数の人たちに共感をもって迎えられたであろう時代は確かにあった。買い求めた週刊誌の頁(ページ)が増えていることで、何かずいぶん得をした気分になり、「水温む」の自然ばかりではなく、作者の心もまた春めいてきたという句である。たしかに昔は、中身には関係なく、増ページは素朴に嬉しかった。半世紀近くも前の子供向け雑誌の付録合戦もまた同じことで,あの本誌から飛び出さんばかり(いや、完全に飛び出していたな)の別冊漫画本の物量感にわくわくした思い出をお持ちの読者も少なくないはずだ。しかし現代では、週刊誌のページ数がどうであろうが、そのことを喜んだり哀しんだりする気持ちはなくなってしまっている。こういう句を読んでも、だから一種の古くささだけを感じてしまうことになる。むろんこれは作者のせいではなくて、時代のせいなのである。これまでにも何度か書いてきたように、俳句にはその時代のスナップ写真みたいなところが多々あって、作句時に作者がさして意識もしていなかった何かが、後の世になってみると良く見えてきて,それが句の中身と言うか、作者の意図を越えたところで貴重になることがあるものなのだ。掲句もまたそういう意味で、いわば時代の綾を写し取った作品として珍重さるべきだろう。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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