古書値が急降下という(朝日)。我が第一詩集も50000円から100円の幅で乱高下。




1999N212句(前日までの二句を含む)

February 1221999

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

                           与謝蕪村

明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。(清水哲男)


February 1121999

 雪の夜長き「武蔵」を終わりけり

                           徳川夢声

川夢声というひとがいた。ラジオがまだ娯楽の王座にあった時代、夢声の朗読は「話術の至芸」として日本国中知らないものはなかった。特に有名だったのが吉川英治の『宮本武蔵』の朗読で、その本物を聞いたことがない田舎の子供でも口真似ができたほどである。ラジオではNHKで昭和14年から15年まで続き、その後戦時国民意識高揚に18年から20年1月15日まで続いた。この句はその最後の日に作られたものである。夢声は俳句好きで久保田万太郎の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。日記代わりに作ったので膨大な凡作の山であるが、そこがいかにも夢声らしい。俳号・夢諦軒。「武蔵」の朗読は戦後復活し、昭和36年から38年に「ラジオ関東」で放送され、レコードになった。私達が聞いたのはそれかもしれない。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。(井川博年)


February 1021999

 ごみ箱のわきに炭切る余寒かな

                           室生犀星

寒(よかん)は、寒が明けてからの寒さを言う。したがって、春の季語。「ごみ箱」には、若干の解説が必要だ。戦前の東京の住宅地にはどこにでもあったものだが、いまでは影も形もなくなっている。外見的には真っ黒な箱だ。蠅が黒色を嫌うという理由から、コールタールを塗った長方形の蓋つきのごみ箱が各家の門口に置かれていた。たまったゴミは、定期的にチリンチリンと鳴る鈴をつけた役所の車が回収してまわった。当時は紙類などの燃えるゴミは風呂たきに使ったから、「燃えないゴミ専用の箱」だったとも言える。句の情景については、作者の娘である室生朝子の簡潔な文章(『父犀星の俳景』所載)があるので引いておく。「炭屋の大きな体格の血色のよいおにいちゃんが、いつも自転車で炭を運んできていたが、ごみ箱のそばに菰を敷いて、桜炭を同じ寸法に切るのである。(中略)煙草ひと箱ほどの寸法に目の細かい鋸をいれて三分の一ほど切ると、おにいちゃんは炭を持ってぽんと叩く。桜炭は鋸の目がはいったところから、ぽんと折れる。たちまち形のよい同じ大きさの桜炭の山ができる。その頃になると、書斎の大きな炭取りが菰の隅におかれる。おにいちゃんは山のように炭取りにつみ上げたあと、残りを炭俵の中につめこむのである。炭の細かい粉が舞う。……」。『犀星発句集』(1943)所収。(清水哲男)




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