誕生日。アンケート葉書などに年令を記入する際、われと我が年令に驚くこと多し。




1999ソスN2ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1521999

 雪降るとラジオが告げている酒場

                           清水哲男

に一度の自句自解。といって、解説するに足るような句ではない。読んだまま、そのまんま。なあんだ、で終わりです。新宿駅のごく近く(徒歩3分ほど)に「柚子」という酒場がある。「天麩羅」と難しい漢字で書いてある看板を見ると、物凄く高そうな店だ。正常な神経の持ち主ならば、ヤバイと敬遠するロケーションにある。が、ある夜とつぜんに、無謀にも辻征夫が(酔った勢いで)踏み込んで、めちゃくちゃに安いことを発見してきた。以来、この店は私たちの新宿での巣となった(みんな、安いなかでも高い売り物の天麩羅は食べずに、もっぱら鰯の丸干しを食べている)。その店で思いついた句だ。めちゃくちゃに安い店だけに、有線放送などという洒落れたメディアとは縁がない。開店中は、ずっとラジオをかけている。要するに、トランジスター・ラジオが出回りはじめたころの酒場と同じ雰囲気なのだ。飲んでいるうちにラジオなぞ耳に入らなくなるが、はたと音楽が止んでニュースや天気予報の時間になると、半分は職業病から、私の耳はそちらに引き寄せられる。で、句のような場面となり、別になんというわけでもないのだけれど、不意に昔の山陰の雪景色が明日にでも見られそうな気分になったという次第。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(角川ミニ文庫・1997)所載(と、実は当ページの読者の方から教えていただいたのですが、本人は呑気にも未確認です)。(清水哲男)


February 1421999

 辞すべしや即ち軒の梅を見る

                           深見けん二

家を訪問して辞去するタイミングには、けっこう難しいものがある。歓待されている場合は、なおさらだ。「そろそろ……」と腰を上げかけると、「もう少し、いいじゃないですか」と引き止められて、また座り直したりする。きっかけをつかみかねて、結局は長居することになる。酒飲みの場合には、とくに多いケースだ。自戒(笑)。句のシチュエーションはわからないが、作者は上手なきっかけを見つけかけている。「辞すべしや」と迷いながら、ひょいと庭を見ると、軒のあたりで梅がちらほらと咲きはじめていたのだ。辞去するためには、ここで「ほお」とでも言いながら、縁側に立っていけばよいのである。そしてそのまま、座らずに辞去の礼を述べる……。たぶん、作者はそうしただろう。こうした微妙な心理の綾をとどめるのには、やはり俳句が最適だ。というよりも、俳句を常に意識している心でなければ、このような「キマラないシーン」をとどめる気持ちになるはずもないのである。いわゆる「俳味」のある表現のサンプルのような句だと思う。『父子唱和』(1956)所収。(清水哲男)


February 1321999

 芹つみに国栖の処女等出んかな

                           榎本星布

本星布(せいふ・1732-1814)は女性。武蔵国八王子(現・東京都八王子市)生まれ、加舎白雄門。古典の教養を積んだ人で、私のように朦朧とした人間にも、この句のおおらかさは万葉の時代を想起させる。上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)で勉強したところによれば、『万葉集』巻十の春相聞「国栖(くにす)らが若菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」を踏まえている。国栖(くず)は奈良県吉野川上流の集落名で、奈良・平安時代を通じて宮中の節会に笛などの演奏で参加を認められていたという。その意味では、由緒正しい伝統のある土地柄なのだ。ところで、句は見られるとおり、踏まえているといっても、恋の心を踏んでいるわけではない。明るくおおらかな若菜摘みの情景だけを借りてきて、みずからの晴朗な心映えを伝達しようとしている。したがってここで注目しておきたいのは、万葉の情景を拝借してまでも、このようなおおらかさを歌い上げておこうとした星布の内心である。いわば「かりそめの世界」に無理にも遊ぼうとした作者の、現世に対する苛立ちを逆に感じてしまうと言ったら、深読みに過ぎるだろうか。あまり上手ではない句だけに、気にかかるところだ。「処女」は「おとめ」と読む。(清水哲男)




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