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February 1721999

 冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす

                           松尾芭蕉

状しておけば、冬に咲く牡丹(ぼたん)を見たことがない(東京では上野で見られるようだが……)。仕方なく図鑑の写真で見ると、雪のなかで藁(わら)のコモをかぶり、鮮やかな赤い花をつけている。冬牡丹(寒牡丹)は、庭などに植えられる普通の牡丹の「二季咲き性の変種」で、美しく咲かせるためには春と晩夏の摘蕾が必要だという。つまり、かなり無理をさせて冬場に咲かせてきた花である。温室栽培など考えられなかった芭蕉の時代の「冬牡丹」は、したがってまことに珍重すべき花だったろう。その美しさを表現するのに、芭蕉も最大級の美しい言葉を使って応えている。情景としては、冬の牡丹に見惚れていると、どこからか千鳥の声が聞こえてきたという場面。これだけでも十分に句になるところだが、四十一歳の芭蕉はあまりの花の美しさに、もうひとつ大きく振りかぶった。「これはまるで、雪中で鳴くほととぎすみたいではないか」と。ほととぎすが厳冬に鳴くわけもないが、本来の牡丹の季節に鳴くほととぎすが、今、この寒さのなかで鳴いているような美しさだと述べたのである。もちろん「鳴いて血を吐くほととぎす」の「赤」も意識している。あざとい表現かもしれないが、私は好感を持つ。だから、冬牡丹を見たこともないのに、ここに書きつけておきたいと思った。句の前書に「桑名本當寺(ほんとうじ)にて」とある。(清水哲男)


December 02122004

 寒牡丹撮るとき男ひざまづく

                           折戸恭子

語は「寒牡丹(かんぼたん)」で冬。藁でかこって育て、厳冬にも花を咲かせる。花の写真撮影を趣味にする人は多い。近所の神代植物公園に行くと、薔薇の季節などはカメラの砲列状態だ。デジカメではなく、ほとんどが三脚を立て、フィルムを装填した高価そうなカメラで撮影している。が、寒牡丹のように背丈の低い花は、脚を立てるわけにはいかないので、句のように手持ちで撮らざるを得ない。このときに、どれだけ撮影に熱中しているかが、撮影者の姿勢にあらわれるのだ。ついでにこの花もちょっと押さえておこうくらいの軽い気持ちの人は、適当にかがんで撮る。だが、熱くなっている人はまさに「ひざまづく」のである。地面の冷えやズボンが汚れるなんぞは何のその、この姿勢のほうが手ぶれを最小限にとどめられるし、かがむよりもよほど被写体に肉薄できる。気がつけば、知らず知らずにそんな姿勢になっていたということだろう。作者にはその様子が、何か「男」が神々しいものに「ひざまづく」かのようにも重なって見えたというのである。むろんカメラの男にそんな気はないはずだけれど、人の熱中している姿には、たしかに敬虔な心映えといったものを感じさせられる。「ひざをつく」としなかった作者の目は、確かだ。ピュアであることは美しい。ピュアだけでは生きられない人間社会だからこそ、そうなのである。俳誌「街」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


January 2412006

 フーコーの振子の転位冬牡丹

                           恩田侑布子

語は「冬牡丹(ふゆぼたん)」、「寒牡丹」に分類。厳冬に咲く花を観賞する。霜除けの藁を三角帽子のようにかぶせられた姿が、可愛らしくも微笑ましい。句ではいきなり「フーコーの振子」が出て来て驚かされたが、作者はおそらく、この三角帽子からフーコーの装置を連想したのではなかろうか。フーコーの振子は、地球の自転を視覚的に証明する装置だ。できれば北極か南極にセットするのが理想的だが、赤道を除いた地球の任意の地点に巨大な振子装置を作る。作ったら、振子を水平に揺らしてやる。すると、ちょっと見た目には振子はいつまでも水平運動だけを繰り返しているようだが、そうではない。観察すると、水平運動を繰り返しつつも、徐々に振子は同時に回転もしていることが確認されるのだ。つまり、この回転は地球の自転と連動してからなのであって、北極か南極ならば、振子の転位の軌跡はきれいな円錐形を描き出すだろう。冬牡丹の藁の三角帽子を、このフーコーの振子の「転位」の軌跡である円錐形に見立てれば、そこに咲いているのは牡丹は牡丹でも、どこか宇宙の神秘を感じさせる花のようにも見えてくる。地球は自転している、だからこの花はこのようにある。普段そんなことを思って花を愛でる人はいないだろうが、たまには句のように大胆に視点を変えてみると、これまでは見えなかったものが見えてくることがありそうだ。『振り返る馬』(2005)所収。(清水哲男)


January 2712012

 今生に子は無し覗く寒牡丹

                           鍵和田秞子

者五十歳の作。子が無いという思いについての男と女の気持には違いがあるだろう。跡継ぎがいないとか自分の血脈が途絶えるとか、男は観念的な思いを抱くのに比して女性は自分が産める性なのにというところに帰着していくような気がする。そんな気がするだけで異性の思いについては確信はないが。同じ作者に「身のどこか子を欲りつづけ青葉風」。こちらは二十代後半の作。「身のどこか」という表現に自分の本能を意識しているところが感じられる。「覗く」はどうしてだろう。この動詞の必然性を作者はどう意図したのだろう。見事な寒牡丹を、自分の喪失感の空白に据えてやや距離を置いて見ている。そんな「覗く」だろうか。『自註現代俳句シリーズV期11鍵和田釉子集』(1989)所収。(今井 聖)

お断り】作者名、正しくは「禾(のぎへん)」に「由」です。




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