都知事候補出揃う。ババばっかりのカードで「ババ抜き」なんてやる気にならない。




1999ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2021999

 鴬の身を逆にはつね哉

                           宝井其角

来曰「角(其角)が句ハ春煖の亂鴬也。幼鴬に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし」(『去来抄』)とあって、この句は去来が痛烈に批判したことでも有名になった。「はつね」というのだから、この鴬はまだ幼いはずだ。そんな幼い鴬が、身をさかさまにして鳴くなどの芸当ができるわけがない。「凡物を作するに、本性をしるべし」とぴしゃりと説教を垂れてから、其角ほどの巧者でもこんな過ちを犯すのだから、初心者はよほど気をつけるようにと説いている。理屈としては、たしかに去来のほうに軍配は上がるが、しかし、ポエジー的には其角の「曲」のほうが勝っている。春いちばんに聴いた鴬の姿は事実に反するとしても、作者の楽しげな気分が活写されているではないか。このように其角には、客観写生をひょいと逸脱するところがあり、昔からそこが「よい」という読者と、そこが「駄目」という読者がいる。私は「よい」派ですが、あなたはどうお考えでしょうか。『去来抄』の鴬の句で評判がよいのは、なんといっても半残の「鴬の舌に乗てや花の露」だ。「てや」がよい、一字千金だと去来が言い、丈草にいたっては「てやといへるあたり、上手のこま廻しを見るがごとし」と変な讃め方までしている。(清水哲男)

[早速、読者より]「我が家で飼ってる鶯は幼鶯ですが、逆さで鳴いたりしてますけど・・・。むしろ、年とってるヤツの方が落ち着いてるせいかそんなことしないみたい」。となれば、去来はピンチですね。ありがとうございました。


February 1921999

 しやがむとき女やさしき冬菫

                           上田五千石

語ではあるが、冬菫というスミレの品種はない。春に咲くスミレが、どうかすると晩冬に咲くこともあり、それを優雅に呼称したものである。もとより珍しいので、見つけた女性はしゃがみこんで見ている。そのしゃがむ仕草を、作者の五千石は女性「一般」のやさしさの顕れと見て、好もしく思っている。ところが、この句の存在を知ってか知らずか、池田澄子に「冬菫しゃがむつもりはないけれど」の一句がある。昨年だったか、両句の存在を知ったときに、思わず吹き出してしまった。こいつは、まるで意地の張り合いじゃないか……などと。五千石は他界されているので、わずかな知己の間柄(たった一度、テレビの俳句番組でご一緒しただけ)ではある池田さんに電話をかけて聞いてみようかなと思ったりしたのだが、やめた。これは両句とも、このままで置いておいたほうが面白かろうと、なんだかそんな気がしたからであった。人、それぞれでよい。詮索無用。人の「やさしさ」を感じる心にしても、しょせんは人それぞれの感じ方にしか依拠できないのだから。(清水哲男)


February 1821999

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな

                           黒柳召波

っと、どっこい。すとんと落ちかかった花を、かろうじて葉で抱きとめている椿の図。椿は万葉の昔から詠まれてきたが(しかも、落ち椿の詩歌が多いなかで)、このように途中で抱えられた椿を詠んだ人は少ないだろう。「かかへたる」という葉の擬人化もユーモラスで、召波の面目躍如というところ。物事を「よく見て、きちんと詠む」のは俳句作家の基本である。したがって句を作る人たちは、まず「よく見る」ことの競争をしているようなもので、その競争に勝てば、とりあえず駄句は避けられる理屈となる。この句などは、そんな競争に勝つための目のつけどころのお手本だ。こんなふうに詠まれてみて、しまった口惜しいと思っても、後の祭り……。客観写生での勝負には、常に「コロンブスの卵」的な要素がつきまとうのである。だからこそ、常日頃から「よく見」ておく必要があるというわけだ。作者は江戸期の人だから、この椿は和名を「ツバキ」といった「薮ツバキ」のこと(だと思う、あくまでも推定だが)。いまでは椿の園芸品種も多種多様であり目移りするほどだけれど、いろいろ見てきたなかで、結局はどこにでもある「薮ツバキ」の素朴さを、私は好きだ。(清水哲男)




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