February 271999
妻留守に集金多し茎立てる杉本 寛茎は「くき」の古形で「くく」と読む。茎立(くくだち)は、春になって大根や蕪などが茎をのばすことで、この茎が「とうが立つ」と言うときの「とう」である。こうなったら、大根だと「す」が入って不味くなるので食べるわけにはいかない(人間だと、どうなるかは関知しない……)。農家では、種を取るために、わざと茎立のままに放置しておく。自註がある。「たまの休日。一人で留守居をしていると何故か客が多い。客といっても、集金・勧誘の類。折角読書をと思っても興がのらず、庭を眺めるだけ」。昭和57年(1982)の作品だ。当時はまだ、そんなに諸料金の銀行引き落としシステムが普及していなかったので、休日の亭主族はこんなメに会うことが多かった。庭の植物の茎立さながらに、われと我が身も「妻」に放置されたような苦い笑いが込められている。私にも、もちろん覚えがある。しつこい新聞の勧誘に粘り強くつきあって、ついに撃退(失礼っ)に成功したと思ったら、勧誘のお兄さんの捨てぜりふがイマイマしかった。「そうですねえ。ご主人に『アサヒ・シンブン』は難しすぎるかもしれませんねえ」だと。よくも言いやがったな。読書に戻るどころではない。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男) April 022007 茎立ちや壁をつらぬく瓦釘石井孤傘季語は「茎立(ち)」で春。「くくだち」あるいは「くきだち」と読む。暖かくなってきて、大根や蕪、菜類の花茎が高く抜きんでることを言う。揚句の前書きには「粗忽(そこつ)の釘」とあって、落語の演目の一つだ。したがって、この噺を知らないと、句の意味はわからない。噺は、粗忽者の大工が長屋に引っ越してくるところからはじまる。箒をかけたいので長い釘を打ってくれと女房に言われた男が、長さも長し、八寸もある瓦釘を柱に打つつもりが、手元狂って壁に打ち込んでしまった。なにせ貧乏長屋のことだから、壁は隣りの物音が聞こえるくらいに薄い。壁をつらぬいた釘は、当然隣家に突き抜けているはずだ。さあ、大変。とにかく謝ってこようということになり、男が隣家を訪ねたまではよかったのだが……(この噺はここで聞けます)。つまり揚句のねらいは、うっかり壁をつらぬいてしまった瓦釘を、これも茎立の一つだとみなした可笑しみにある。いかにも暢気で茫洋とした春らしい見立てだ。と、微笑する読者もおられるだろう。実は、揚句の載っている句集は、他もすべて落語をテーマにした句で構成されている(全377句)。なかで揚句は巧くいっているほうだと思うが、全体的にはいまいちの句が多いと見た。笑いに取材して、新たな笑いを誘い出すのは、至難の業に近いようだ。『落語の句帖』(2007)所収。(清水哲男)
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