イチローがアメリカでヒットを打った。そんなことを、なぜ仰々しく報道するのか。




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March 0631999

 啓蟄の庭とも畠ともつかず

                           安住 敦

蟄(けいちつ)は二十四気の一つ。「啓」は「ひらく」で「蟄」は巣ごもりを意味する。冬眠していた虫たちが、このころになると地上に姿をあらわしはじめる。だから、今日は「啓蟄」かと思うと、誰でも作者と同じように、つい地面を見つめたくなってしまう。そこにめでたく虫がいたかどうかは別にして、眺めてみると、作者の庭には春の花も咲いているが、食料としての野菜類も植えられている。これでは「庭」なんだか「畠」なんだかわからないじゃないかと、苦笑している図である。戦中から戦後にかけての食料難の時期は、都会の家々の「庭」はみんな「畠」も同然だった。なにしろ、野球でおなじみだった東京の後楽園球場までもが野菜畠と化していたのだ。でも、この句を現代のそれとして読む人もいるはずだ。「家庭菜園」に熱心に打ち込んでいる人も多いので、そのような読者の共感と微苦笑をも得られそうである。それにしても「啓蟄」の「蟄」とは覚えにくい漢字だ。よーく見てみるとそんなに難しいわけではないのだけれど、万年筆で原稿を書いていたころには、いつも「チェッ」と舌打ちしては辞書を引いたものだ。使用頻度が、極端に少ないせいもある。いまは「ワープロさまさま」で、一発で出てくる。(清水哲男)


March 0531999

 あたたかや四十路も果の影法師

                           野見山朱鳥

分の影。五十歳に近い男の影法師。病弱だった作者は、暖かさに誘われて庭に出ている。若いころの影とはどこか違い、影にも年輪があることを見いだして、作者はあらためて己の年令のことや來し方を思っている。春愁の心持ちだ。朱鳥は五十二歳で亡くなった(1970)。だから、この句を書いた後、そう長くは生きられなかったことになる。そのことから照り返されてくる哀切……。しかし、こうした事実を知らなくても、句は十分に観賞に耐え得る。人間が時間を心に置き、年令をカウントするのは、究極のところ「死」を意識する結果であるからだ。たとえば、サラリーマンが「四十路の果」で定年までの年数を頭に浮かべたりするのも、その果てには確実に「死」が待ち受けているという認識があるからである。人間に「死」の意識がないとすれば、定年などどうということもない。いや、定年という制度そのものが既にして「死」の観念から逆算されたものだから、定年を思うことは畢竟「死」を思うことなのだ。そこで、句の影「法師」の意味が鮮明に立ち上がってくるということになる。「絶命の寸前にして春の霜」(朱鳥)。「死」の寸前にあっても、なお「寸前」という時間意識にとらわれる怖さ。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)


March 0431999

 山路来て何やらゆかしすみれ草

                           松尾芭蕉

書に「大津に出る道、山路をこえて」とある。教科書にも載っており、芭蕉句のなかでも有名な句に入るだろうが、さて、この句のどこがそんなに良いのか。味わい深いということになるのか。まことに失礼ながら、この句の眼目をきちんと生徒に説明できる国語の先生は、そんなにはおられないと思う。無理もない。なぜなら、芭蕉の時代の「すみれ草」に対する庶民的な感覚ないしは評価を、ご存じないだろうからである。当時の菫は、単なる野草の一種にすぎなかった。いまの「ペンペン草」みたいなものだった。贔屓目にみても「たんぽぽ」程度。たとえばそれが証拠に、江戸期の俳句に「小便の連まつ岨(そば)の菫かな」(松白)があったりして、小便の先にも当然菫は咲いていただろう。菫が珍重されはじめたのは明治期になってからのことで、それまではただの草だったということ。詩歌の「星菫派」といい、宝塚の「菫の花咲くころ」という歌といい、菫が特別視されだしたのは、つい最近のことなのだ。だから、この句は新鮮だったのである。つまらない「野の花」に、なにやら「ゆかしさ」を覚えた人がいるという驚き。句からは、これだけを読み取ればよいのだが……。(清水哲男)




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