小学時代は春の小川での道草が常。帰宅すると子供にもきつい仕事が待っていたから。




1999ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0731999

 さしぬきを足でぬぐ夜や朧月

                           与謝蕪村

橋治『蕪村春秋』によれば、この句は「蕪村信奉者がわけてもしびれる王朝ものの一句である」という。「さしぬきは指貫、元来公家の衣服の一種で、裾をひもでくくるようにした袴(はかま)である。公服や略装に広く用いられた。その性格から、この句は若き貴公子を詠んだ、と通常考えられている」と説明があり、「つかみどころがないのがこの句の長所なのだ」とある。たしかに、つかみどころがない。どう読んでも空想の産物だからというのではなくて、情景があまりにも漠としているからだ。句の人物は酔って帰ったのか、それとも情事のさなかなのか、などといろいろに考えられる。現に、昔から解釈には何通りもあって、どれも当たっているし当たっていないしと、歯痒いかぎりだ。なかには『源氏物語』を引っ張りだすムキもある。そんなことを思い合わせて、私はいつしか情景を詮索してもはじまらない句だと思うようになった。観賞すべきは、生臭さだけだと。朧月だけの照明効果しかない暗い室内で、いわばスーツのズボンを足で脱ぐような行為そのものの自堕落さ。その生臭い感じだけを、作者は訴えたかったのではあるまいか。王朝も虚構なら、朧月もフィクションだ。人の呼吸が間近にあるような生臭さを演出するために、蕪村はこの舞台装置を選択したのだと。(清水哲男)


March 0631999

 啓蟄の庭とも畠ともつかず

                           安住 敦

蟄(けいちつ)は二十四気の一つ。「啓」は「ひらく」で「蟄」は巣ごもりを意味する。冬眠していた虫たちが、このころになると地上に姿をあらわしはじめる。だから、今日は「啓蟄」かと思うと、誰でも作者と同じように、つい地面を見つめたくなってしまう。そこにめでたく虫がいたかどうかは別にして、眺めてみると、作者の庭には春の花も咲いているが、食料としての野菜類も植えられている。これでは「庭」なんだか「畠」なんだかわからないじゃないかと、苦笑している図である。戦中から戦後にかけての食料難の時期は、都会の家々の「庭」はみんな「畠」も同然だった。なにしろ、野球でおなじみだった東京の後楽園球場までもが野菜畠と化していたのだ。でも、この句を現代のそれとして読む人もいるはずだ。「家庭菜園」に熱心に打ち込んでいる人も多いので、そのような読者の共感と微苦笑をも得られそうである。それにしても「啓蟄」の「蟄」とは覚えにくい漢字だ。よーく見てみるとそんなに難しいわけではないのだけれど、万年筆で原稿を書いていたころには、いつも「チェッ」と舌打ちしては辞書を引いたものだ。使用頻度が、極端に少ないせいもある。いまは「ワープロさまさま」で、一発で出てくる。(清水哲男)


March 0531999

 あたたかや四十路も果の影法師

                           野見山朱鳥

分の影。五十歳に近い男の影法師。病弱だった作者は、暖かさに誘われて庭に出ている。若いころの影とはどこか違い、影にも年輪があることを見いだして、作者はあらためて己の年令のことや來し方を思っている。春愁の心持ちだ。朱鳥は五十二歳で亡くなった(1970)。だから、この句を書いた後、そう長くは生きられなかったことになる。そのことから照り返されてくる哀切……。しかし、こうした事実を知らなくても、句は十分に観賞に耐え得る。人間が時間を心に置き、年令をカウントするのは、究極のところ「死」を意識する結果であるからだ。たとえば、サラリーマンが「四十路の果」で定年までの年数を頭に浮かべたりするのも、その果てには確実に「死」が待ち受けているという認識があるからである。人間に「死」の意識がないとすれば、定年などどうということもない。いや、定年という制度そのものが既にして「死」の観念から逆算されたものだから、定年を思うことは畢竟「死」を思うことなのだ。そこで、句の影「法師」の意味が鮮明に立ち上がってくるということになる。「絶命の寸前にして春の霜」(朱鳥)。「死」の寸前にあっても、なお「寸前」という時間意識にとらわれる怖さ。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)




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