G黷ェ句

March 2131999

 なほ煙る炭窯一つ初ざくら

                           亀井絲游

桜(「初花」とも)は、その年にはじめて咲いた桜のことを言うが、厳密な意味はない。最初に目にとまった桜花程度の意味が本義だ。植物学的な開花順序も関係ないので、桜の種類はなんであっても構わない。ただ、特筆すべきは「桜」や「花」などと同格に、歳時記では「初桜」にも季語の主項目が与えられているというあたりで、このことは昔から、如何に桜の開花が多くの人々に待たれていたかを証明している。現代でも、気象庁がしゃかりきになって開花予想を立てるのは、ご承知のとおり。この句の場合は「初桜」本義のように、いつ咲いたのかは知らねども、なにげなしに山を見上げたら、炭焼窯の煙一筋のかたわらに咲いていたという情景である。炭焼きは主として冬場の仕事だから、春になっても煙をあげている窯はかなり珍しい。その珍しい煙をいぶかしく眺めた作者の目の流れに、すうっと桜の花が入ってきた。ああ、春が来たんだなあ……という叙情。こんな光景に出くわしたら、私はカメラを向ける。が、カメラなど無関係な生活者の目でないと、こういう句は作れまい。同じ初桜でもたとえば金子潮に「初花の雨風窓打つ決算期」という苦い句があり、サラリーマン諸氏には、この句のほうが身近だろう。でも、上掲の句のほうを好ましいと思うだろう。(清水哲男)


March 1832006

 癒えてゆくことも刻々初花に

                           水田むつみ

語は「初花(初桜)」で春。最初は作者自身が病床にあるのかと思ったが、そうではなかった。自解がある。「90歳の父が倒れ、車椅子の生活を余儀なくされた。歩くことを諦めていたが、リハビリの甲斐あって、初花の気息の如くに刻々回復へと向かった。俳句の力が奇跡をもたらしたとしか言いようのないほど父の運の強さを感じる」。ということは、父上も俳句をよくされるのであろう。それはともかく、この自解を読んでからもう一度句に戻ってみると、つまり冷静に読んでみると、なるほど自分の病いが癒えているにしては、勢いが良すぎる。やはりこの句は、他者への応援歌として読むべきであったし、ちゃんと読めばそれがわかるように作られている。一瞬の思い込みは危険だ。どうも、私はせっかちでいけないと反省した。もう一句、「初花へ一途の試歩でありにけり」。南国からの花便りが伝えられる今日この頃、句の父上のように懸命にリハビリに励んでいる方も、たくさんおられるだろう。ご快癒を祈ります。ところで、掲句は三年前の作。で、気がついたことには、この父上と私の父親とはまさに同年だ。私の父は幸いなことに、車椅子のお世話にはなっていないけれど、やはり相当に脚が弱ってきてはいる。もはや、杖なしでは外出できない。杖があっても、よく転ぶらしい。若いときに軍隊で鍛えられ、敗戦後は百姓で鍛えられた脚でも、年齢には勝てないというわけか。いくら山国育ちでも、父に比べればほとんど鍛えていないに等しい私の脚には、やはりそろそろガタが来そうな予感がしている。「俳句研究」(2003年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652010

 五月雨ややうやく湯銭酒のぜに

                           蝶花楼馬楽

月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。(八木忠栄)


April 0242011

 初花となりて力のゆるみたる

                           成瀬正俊

の時期、ソメイヨシノを見上げて立ち止まること幾たびか。花を待つ気持ちが初花を探している。今にも紅をほどかんとしているたくさんの蕾を間近でじっと見ているとぞわぞわしてくるが、それは黒々とした幹が溜めている大地の力を感じるからかもしれない。初花、初桜は、青空に近い枝先のほころびを逆光の中に見つけることが多い。うすうすと日に透ける二、三輪の花は、まさにほっとゆるんだようにも見える。そしてほどけた瞬間から、花は散るのを待つ静かな存在になる。蕾が持っていた力は一花一花を包みながら、やがて満開の桜に漲っていく。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


March 2932014

 春雷や暗き茶の間に妻と客

                           渡邊そてつ

子編歳時記の春雷の項に、柔らかな春にはためくのも趣がある、とあり、はためくは、はたたくと同義で鳴り響くことだという。これが春雷か、と認識したのはかなり前だが、あっと思ってから耳を澄ましていても二度と聞こえなかった記憶がある。何回かここに句を引いている『現代俳句全集』(1954・創元社)の第二巻からの一句、六十年前の現代である。子規、虚子、に始まって、爽波、風生、立子、青邨等々見知った名前は多くはなく、総勢百四十二人がそれぞれ三十句〜七十句余りを載せている。掲出句の作者は医学博士とある。この句は<坂の灯の暗くはあれど初桜 ><日に幾度蔵に用ある梅雨の傘 >に挟まれているので、日常の一瞬の景と思われるが、一句だけを読むとそこに物語めいた不思議な艶が感じられる。これが夏の雷であったらおどろおどろしい気がしてしまう、というのは考えすぎか。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます