ユーゴ情勢緊迫。「言うことを聞かなければ殺す(空爆)ぞ」の短絡的恫喝を許すな。




1999ソスN3ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2331999

 赤き馬車峠で荷物捨てにけり

                           高屋窓秋

季の句だが、私には春が感じられる。「赤き馬車」と「峠」との取り合わせから来ているのだろう。イメージは字句のとおりであるが、何を言いたい句かということになると、正直に言って解釈は難しい。私なりのそれは、作者の人生をもからめた人間一般の自棄の心を詠んだ句。そんなふうに、思われる。「赤き馬車」が里から峠まで積んできたせっかくの荷物を「捨てにけり」なのだから、事態を人生途上での自己放棄と解釈したのだ。この自己放棄も、みずからが積極的に志向したわけではないのに、そんな光景が遠くに(峠に)見えたとき、理由も無しになぜかストンと納得できたということである。老齢の幻想であり、しかし、まごうかたなき現実でもあると思う。こいつを肯定できるか、それともイヤだと思うか。トシの取り方は、句よりもはるかに難しい。高屋窓秋氏は、今年の正月に亡くなられた。新聞で訃報に接したとき、アッと声をあげた。掲句が収められている句集『花の悲歌』(1993)を、なぜか一面識もない私にも送っていただき、恐縮しながらも、私はお礼の手紙すら差し上げないでいたことを気にしていたからであった。きちんと読んでからと思っている間に、六年もの月日が経っていたことに愕然とした。この「荷物」を、やはり私も近い将来のいつの日にか、あっけらかんと峠に捨ててしまうのだろうか。(清水哲男)


March 2231999

 たんぽぽの絮吹いてをる車掌かな

                           奥坂まや

間の駅。単線だと、長い時間停車して擦れ違う列車を待つ。少し疲れた客はホームに降りて、背伸びなんかをしたりする。ベテランの車掌はホームの端のたんぽぽ(蒲公英)を無造作に摘んで、いかにも所在なげに絮(わた)をふっと吹いている。その子供っぽい仕草に、作者は好感を覚えつつ、春ののどかさを味わっている。私などにも、とても懐しい光景だ。ところで一点、私は「吹いてをる」という文語調にひっかかった。作者は現代の人なのに、なぜ「吹いている」ではいけないのだろうか。ひっかかったのは、外山滋比古『俳句的』(みすず書房・1998)を読んだ影響もある。外山氏の一節。「俳句は文語によることになっている。どうして文語でなくてはいけないのか、と反問する野暮もない。口語に比べて文語の方が何となく、すぐれているように感じる向きがすくなくない」。句の場合、べつに作者はエラそうにしているわけではないが、多少は「をる」のほうが「すぐれている」と思ったのかもしれない。思ったとすれば、根拠は文語表現のほうが句のすわりがよいという点にあるだろう。すなわち、伝統によりかかっての安心感があるということ。とかく口語の腰はふらつく。が、ふらつく口語と取っ組み合わない文芸ジャンルに、未来は期待できない。俳誌「鷹」(1998年6月号)所載。(清水哲男)


March 2131999

 なほ煙る炭窯一つ初ざくら

                           亀井絲游

桜(「初花」とも)は、その年にはじめて咲いた桜のことを言うが、厳密な意味はない。最初に目にとまった桜花程度の意味が本義だ。植物学的な開花順序も関係ないので、桜の種類はなんであっても構わない。ただ、特筆すべきは「桜」や「花」などと同格に、歳時記では「初桜」にも季語の主項目が与えられているというあたりで、このことは昔から、如何に桜の開花が多くの人々に待たれていたかを証明している。現代でも、気象庁がしゃかりきになって開花予想を立てるのは、ご承知のとおり。この句の場合は「初桜」本義のように、いつ咲いたのかは知らねども、なにげなしに山を見上げたら、炭焼窯の煙一筋のかたわらに咲いていたという情景である。炭焼きは主として冬場の仕事だから、春になっても煙をあげている窯はかなり珍しい。その珍しい煙をいぶかしく眺めた作者の目の流れに、すうっと桜の花が入ってきた。ああ、春が来たんだなあ……という叙情。こんな光景に出くわしたら、私はカメラを向ける。が、カメラなど無関係な生活者の目でないと、こういう句は作れまい。同じ初桜でもたとえば金子潮に「初花の雨風窓打つ決算期」という苦い句があり、サラリーマン諸氏には、この句のほうが身近だろう。でも、上掲の句のほうを好ましいと思うだろう。(清水哲男)




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