「むさしのFM」(78.2Mhz)の番組が五年目に。別れと出会いの週がはじまった。




1999ソスN3ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2931999

 朧にて寝ることさへやなつかしき

                           森 澄雄

の夜。寒くもなく暑くもなく、心地好い体感とともに、作者の心持ちも朧(おぼろ)にかすんでいる。世に「春宵一刻価千金」と言うが、まさに故なき一種の至福の状態にある。春宵の雰囲気に、いわば酔っている。そして、そろそろ寝るとするかと立ち上がったときに、ふと、就寝という平凡な日常的行為がひどく懐しく思えたというのである。それこそ「故なき」心の動きではあるが、しかし、読者をすうっと納得させてしまう力が、この句にはある。「そんな馬鹿な」などとは、誰も思わないだろう。力の根拠は、おそらく「寝ることさへや」の「や」にあるのではないかと読んだ。これが例えば「寝ることさへも」と「も」であったとしたら、叙述としてはわかりやすいが、句の力は甘くなる。きっぱりと「や」と強調することで、「も」の気分をも包含しての懐しさが立ちこめるということになった。もうひとつ、作者がこのとき還暦を少し過ぎていたという年令的な背景も「力」となっているだろう。少年少女期が懐しいという人は、意外にも若い人に多い。年寄りはむしろ昨日今日をいつくしむので、懐しむための世代的な共通の分母を、若い人が想像するほどには持ち合わせていないということだ。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)


March 2831999

 鎌倉に清方住めり春の雨

                           久保田万太郎

方は、美人画で有名だった画家の鏑木清方(かぶらき・きよかた)のことだ。典型的な「文人俳句」と言ってよいだろう。こういう句が好きになるかどうかは、詠まれた画家の絵を知っていなければ話にならないし、知っていてもその絵が嫌いでは、またどうにもならない。清方の絵をこよなく愛した作者ならではの一句であり、わからない人にはわからなくてもよいという気構えのある作品だ。文人俳句と言った所以である。早い話が、仲間内ないしは清方ファンにさえ受ければよい句だということ。清方は生粋の江戸っ子であったが、戦後になってから鎌倉に移り住んだ。「芸術新潮」の四月号(1999)が清方を特集していて、なかなかに充実している。同誌によると、この句が作られたときの清方は鎌倉材木座の住人だったそうで、その後、同じ市内の雪ノ下に転居し、そこを終の住処とした。旧居跡(鎌倉市雪ノ下1-5-25)は現在、鏑木清方の名を冠した個人美術館になっている。写真で見ると、ひっそりと建つ平屋の美術館で、こちらも春の雨がしっくりと似合いそうなたたずまいだ。(清水哲男)

[鏑木清方展 回想の江戸・明治 郷愁のロマン]東京国立近代美術館にて、5月9日まで開催中。


March 2731999

 川ゆたか美女を落第せしめむか

                           平畑静塔

塔の年譜を見ると、大阪女子医大に勤務していたことがあるというから、そのときの句だろう。進級の及落判定をしなければならず、成績のよくない美人の女子学生のことで、はたと思案するということになった。言ってみれば自分のさじ加減ひとつで彼女の落第がきまるのだから、慎重にと思うのだが、客観的には落第点をつけざるをえない。教官室の窓から外を見やると、まんまんと水をたたえた春の川がゆったりと流れている。そんな自然の豊かな営みを眺めているうちに、及落判定などどうでもよいという感覚になってきたのだけれど、しかし、彼女をどうしたらよいのかという現実問題にも気持ちは立ち戻り、悩むところだなアと嘆息するばかりだ。春爛漫の季節だからこその、この悩み。第三者である読者には、一種の滑稽感もある。そしておそらく、この美女は落第させられたであろう。そんな気がする。でも、そのときの川が「ゆたか」であったように、その後の美女の人生も「ゆたか」であったろうと、一方では、そんな気もする。句に、まったくとげとげしさがないためである。『月下の俘虜』(1955)所収。(清水哲男)




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