1999N4句

April 0141999

 四月馬鹿病めど喰はねど痩せられず

                           加藤知世子

月馬鹿の句には、自嘲句が多い。自分で自分を馬鹿にしている分には、差し障りがないからである。この句も、典型的なそれだ。「病まねど喰えど太れない」私としては、逆に少々身につまされる句ではあるけれども、見つけた瞬間には大いに笑わせてもらった。作者の人柄がよくないと、なかなかこうは詠めないだろう。楽しい句だ。このように自分で自分を笑い飛ばせる資質は、俳人にかぎらず表現者一般にとって、とても大切なものだと思う。それだけ深く、自分を客観視できるからだ。その意味で、この国の文芸や芸術作品には、とかく二枚目のまなざしで表現されたものが多くて辟易させられることがある。ときに自己陶酔的な表現も悪くはないが、度が過ぎると嫌味になってしまう。同様に、美男美女につまらない人物が多いのは、他人の好意的な視線だけを栄養にして育ってきているからで、自己否定ホルモンの分泌が足らないせいだろう。他人は馬鹿にできても、ついに自分を馬鹿にすることができない……。せっかく生まれてきたというのに、まことに惜しいことではないか。バイアグラも結構なれど、こうした「馬鹿」につける薬も発明してほしい。(清水哲男)


April 0241999

 花の昼動く歩道を大股に

                           佐々木峻

者は「動く歩道」を大股で突き進んでいるのだから、とにかく忙しいのだ。空港だろうか。たぶん、遠くても窓外に花は見えているのだろうけれど、実際「花」どころではないのである。何が何でも、先を急がなくてはならない。今日あたりも、こんな気持ちで「動く歩道」を大股ですっ飛ぶように歩いているサラリーマンは、全国のあちこちにいるだろう。切なくも、逞しい感覚と言うべきか。ただし、作者には別に「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句があり、「桜花」には執着がなさそうなので読者としては少し気が楽だ。けれども、この忙しさの渦中にある感覚だけはよくわかる。サラリーマン編集者の頃、ファクシミリなどなかったから、とにかく短文一本カット一枚も手渡しだったので、締切日前後は多忙を極めた。なかには関西在住の小松左京さんの原稿のように、貨物便で羽田空港に送られてくるものもあった。社への配達を待っていたのでは間に合わないので、毎月、空港まで取りに行った。印刷所も夜通し仕事をしており、「今日はもう遅いから」という逃げ口上は通用しなかった時代だ。……等々、この句を読んで思い出したことがたくさんあった。『まどひ』(1998)所収。(清水哲男)


April 0341999

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)


April 0441999

 鴬の茶畠に鳴く四月かな

                           船 山

ことにもって呑気な句だ。楽しい句だ。ついでに言わせてもらえば、トルネード的に下手な句(笑)でもある。しかし、こんな句がひょいと出てくるから、俳句を読むのは止められない。茶摘み前の茶畠の近くで、鴬がきれいな声で鳴いている。歩いていても眠くなるような、そんな午後のひとときの光景だ。学生時代に、茶どころの宇治で下宿住まいをしたことがあるので、この雰囲気は日常のものだった。ただ、こんな句の良さなどは絶対に認めようとしない「俳句好き」にして、かつ生意気な政治青年であった。だから、いまさらのように、こういう句を面白いと思うようになった自分にびっくりしてもいる。この句は、電話機の横にメモを取るために置いてある「デスク・ダイアリー」の欄外に印刷されていた。昔は、どんな事務所にも置いてあったバインダー式の日めくりカレンダーである。今日が旧暦の何日であるとか、思わずも顔が赤くなるような格言であるとかが、とにかくごちゃごちゃと書いてあるのだけれど、あれらを毎日ちゃんと読む人はいるのだろうか。私は、たまにしか読まない。(清水哲男)


April 0541999

 娘泣きゆく花の人出とすれ違ひ

                           星野立子

の名所に向かって、ぞろぞろと歩いていく人々。作者も、そのなかの一人だ。そんな浮かれ気分の道を逆方向に歩いてくる人も、もちろんいる。ほとんどは、地元の人だろう。いちいち擦れ違う人を意識するわけでもないけれど、作者の目はふと、向こうから足早にやって来る若い女性の姿にとらえられてしまった。「泣きゆく」というのだから、嗚咽をこらえかねている様子を、娘は全身から発していた。思わず、顔を盗み見てしまう。一瞬の「すれ違ひ」に、人生の哀楽を対比させて詠みこんだ巧みな句だ。桜の句には、花そのもののありようよりも、こうした人事を詠んだ句のほうが多いかもしれない。純粋に「花を見て人を見ず」というわけには、なかなかいかないということだ。いや、花見は「人見」や「人込み」とごちゃまぜになっているからこそ、独特な雰囲気になるのだろう。こんな句もある。「うしろ手を組んで桜を見る女」(京極杞陽)。さきほどの娘とは違って、この女性の様子はたくましいかぎりだ。今風に言うと「キャリア・ウーマン」か。作者は、この発見ににんまりしている。たった十七文字で、見知らぬ女の全貌をとらえ切った気持ちになっている。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


April 0641999

 あたらしい帽子が太くて枝張る桜

                           穴井 太

カピカの一年生に出会っての所見と思われる。最近は違うかもしれないが、昔の男の子はみんな入学時に「あたらしい帽子」をかぶった。私も、桜の記章のついた学帽をかぶった。少し大きめの帽子だった。子供の成長は早いので、親はそれを見越して大きめの帽子を買うのである。世間の所見はそれを単に愛らしい姿としてとらえるのが常だけれど、作者は違っている。その大きな学帽を、たくましい「太くて枝張る桜」になぞらえている。実際、大きめの帽子をかぶると、何か巨大なものを頭に乗せたような気持ちになる。ついでに、ちょっぴり偉くなったような気もしたものだ。そこらあたりの心理を、作者はずばりと突いている。と同時に、帽子の主の将来を期待する優しい感情も込めている。このとき「枝張る桜」とは、ソメイヨシノではないだろう。ソメイヨシノにはひょろひょろした樹が多く、平均的な樹齢も四十年ほどと短い(とは、友人の話)。花の美しさだけを求めて交配させた結果、たくましさが失われたのだ。私に品種名はわからないが、もっと幹の色が黒い桜で、いかにも野趣溢れる樹木を見かける。句の桜はそれだろう。そんな「桜樹のようにあれよ」と、作者は一年生を激励しているようだ。『鶏と鳩と夕焼と』(1963)所収。(清水哲男)


April 0741999

 春泥にテレホンカード落しけり

                           神谷博子

藤園「おーいお茶」新俳句大賞作(一般の部B・40歳以上65歳未満・応募総数六八九八九句・1998)。茶と俳句というと古風なイメージに写りやすいが、この俳句コンクールは「思ったことを季語や定型にこだわることなく、五七五のリズムにのせて詠めばよい」という至極自由な条件から、若者にも人気を博している。そういうわけで、この句も技巧的な上手下手とは関係のないところでの入賞だ。なによりも、素材の現代性が評価されたのだろう。入選作を集めた冊子「自由語り」に、作者の弁が掲載されている。「買い物の途中、ちょっと家に電話しようと思った時、テレホンカードを、足元の泥水の中に落してしまいました。アスファルトばかりの現代で、ぬかるみこそ見かけなくなりましたが、汚れたカードを拾おうとしながら、ふと『これも春泥(しゅんでい)かな』と思いました」。面白い着眼だと思う。要するに、雨上がりか何かで汚れた鋪道のちょっとした泥水に「春泥」を感じたというわけだ。うーむ、なるほど……。でも、残念なことに、作者のこの微妙な感覚を句は一切伝えていない。選者たちも、本物の「ぬかるみ」と受け取っている。私としては、作者の弁そのものが作品化されていたら、どんなに素敵だったろうかと思い、あらためて句作りの難しさを考えさせられた。(清水哲男)


April 0841999

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ

                           森 澄雄

蓮は、葉にさきがけて紅紫色の花を咲かせる。白い花をつける白れん(「白木蓮」とも)も花が先だが、同属にして別種。どちらも「葉がでて」きたら、はなやかさとは縁が切れる。ところで「立てば芍薬、すわれば牡丹」の昔から、女性を花に例えることはよく行われてきた。植物学の牧野富太郎博士は「花は単なる生殖器です」とあからさまな「学問的真実」を書きつけているけれど、もとより古人の言葉には、そういう意味合いは含まれていない。私たちは、女性の姿や立ち居振る舞いに、直感としての「花」の外観的イメージを当て嵌めてきただけである。が、この句のように、正面切って花季の過ぎた植物の風情を当て嵌めるということは、あまり行われてこなかった。例えば「姥桜(うばざくら)」のような一種の陰口はあったにせよ、この句はそういうこととも違うし、珍しい作品だ。見知らぬ女性のことを言ったのではなく、相手が妻だから言えたのだろう……。さらに言えば、愛妻家だからこそ可能な表現だったとも。句は、たしかに女盛りを過ぎた妻をいとおしいと詠んでいる。「頃ほひ」とぼかして首をかしげているようなところに、作者の感情が込められている。しかし、この見立てを夫人は気に入っただろうか。他人がいちいち詮索することでもないが、妙にアトを引く一句だ。このとき、作者は四十代。『花眼』(1969)所収。(清水哲男)


April 0941999

 片栗の一つの花の花盛り

                           高野素十

球のピッチャーの投法になぞらえれば、この句の技巧は「チェンジ・アップ」というやつだ。速球を投げるのとまったく同じフォームと勢いで、例えば物凄く緩(ゆる)い球を投げるのだ。素十というおっさんは、写生という速球投法を金科玉条としながらも、なかなかに喰えないボールを放ってくるので油断がならない。だって、そうではないか。片栗の花なんてものは、桜などとは違って、はなやかでもなんでもないし、その地味な花のたった一つをとらまえて「花盛り」もないものだ。よく言うよ。しかし、言われてみると、どんな花にも盛りはたしかにあるわけで、読者はみんな「うーむ」と唸ってしまう。プロのテクニックである。見事な技だ。こんな技を知ってから、片栗の花を見ると、なんだか違う魅力を覚えたりするから妙でもある。この片栗の花を、私の番組にブーケにして持ってきてくださった女性がいる。彼女は、八百屋で求めた食用の花を「もったいないので、花束にしてきた」という。東北産の一束が、およそ三百円弱。片栗の若葉は食用になるが、まさか八百屋で売っているとはねエ。これまた、田舎育ちの私には、強烈なチェンジ・アップを投げられた気分であった。見逃しの三振だった。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)


April 1041999

 囀を聞き分けてゐる鳥博士

                           大串 章

の鳴き声は、地鳴きと囀り(さえずり)とに分けられる。地鳴きは仲間との合図のためなどの普通の鳴き声であり、囀りは繁殖期の求愛や縄張り宣言のための声だ。したがって、囀りは春の季語。句は、山中での所産だろうか。騒々しいほどに鳴く鳥たちの声を、一つ一つ厳密に聞き分けている「鳥博士」がいる。「博士」は鳥類専門の研究者かもしれないが、ここでは「素人博士」と読んだほうが面白い。鳴き声の種類をとてつもなくたくさん知っている人で、そのことをちょっと自慢に思っている。「鳥博士」にかぎらず、こうした「博士」はどこにも必ずいるものだ。「花博士」であったり「魚博士」であったり、はたまた「酒博士」や「異性博士」等々。当ページの協力者である詩人の井川博年君などは、さしずめ「俳句博士」だろう。この「鳥博士」は、いまのところ大人しい。しかし、こういう人にみだりに質問を発してはいけない。発した途端に、人にもよるが、堰を切ったようにあれこれと説明をしはじめる人もいるからだ。そうなると、辟易させられることも多く、やはり「博士」はひとり静かにそっとしておくべきだということを思い知らされたりする。もとより、それもまた楽しからずや、ではあるのだけれど。俳誌「百鳥」(1999年4月号)所載。(清水哲男)


April 1141999

 日曜といふさみしさの紙風船

                           岡本 眸

曜日。のんびりできて、自分の時間がたくさんあって、なんとなく心楽しい日。一般的にはそうだろうが、だからこそ、時として「さみしさ」にとらわれてしまうことがある。家人が出払って、家中がしんと静まっていたりすると、故知れぬ寂寥感がわいてきたりする。そんなとき、作者は手元にあった紙風船をたわむれに打ち上げてみた。五色の風船はぽんと浮き上がり、二三度ついてはみたものの、さみしい気持ちの空白は埋まらない。華やかな色彩の風船だけに、余計に「さみしさ」が際だつような気がする……。作者はふと、この日曜日そのものが寂しい「紙風船」のようだと思った。ところで、「風船」とは実に美しいネーミングですね。風の船。名付けるときに「風」を採用することは誰にも思いつくところでしょうが、次に「船」を持ってきたのが凄い。凡庸な見立てでは、とても「船」のイメージとは結び付きません。いつの時代の、どんな詩人の発想なのでしょうか。そんなことを考えていたら、ひさしぶりに「紙風船」をついてみたくなりました。あまり大きい風船ではなく、少してのひらに余るくらいの大きさのものを。(清水哲男)


April 1241999

 父を呼ぶコーヒの時間春の宵

                           小山白楢

れた句というのではないが、時代の証言としては微笑ましい作品だ。この句は、新潮社が1951年に発刊した『俳諧歳時記』に載っており、となれば、この茶の間の光景は戦後すぐのものだろう。もとよりインスタント・コーヒーなどなかったころだから、とても貴重なコーヒーというわけで、一家で大事にして飲んでいた雰囲気も表現されている。飲む時間は、一家が揃ってくつろげる時、すなわち宵の刻であった。当時は、夜間にコーヒーを飲むと寝られなくなるということがしきりに言われていた記憶もあるが、そんなことは構わずに、作者一家は宵のコーヒーを楽しみに団欒していたようだ。古い日本映画でも見ているような、そんな懐しさに誘われる。もっとも、我が家にはコーヒーどころか、満足な茶もなかったけれど……。なお、表記の「コーヒ」は誤りではない。作者は、おそらく関西の人ではないだろうか。いまでも関西の店に入ると、「コーヒー」ではなくて「コーヒ」とメニューにある店がある。関西弁の文脈に「コーヒー」を入れて発音すると、たしかに「コーヒ」となるから、こう表記しなければ正確さに欠ける。この類の相違は他にもいろいろあって、関西育ちの家人は「お豆腐」のことを「おとふ」と発音し、メモ的にはしばしば表記もする。(清水哲男)


April 1341999

 白脛に春風新進女教師よ

                           藤本節子

者は、たぶん教師だろう。新学期になって、赴任してきた大学を出たばかりの女教師の白脛(しらはぎ)が、春風にまぶしく感じられる。若さを素直に羨む心と、ちょっぴり嫉ましい心と……。初日から、この先生は生徒たちの人気者だったろう。私が中学一年のときの野稲先生と三年のときの福田先生は、お二人とも、句のようにまぶしくも初々しい新進女教師だった。国語を担当された。思春期の入り口にあった我等悪童どもは大いに照れながらも、しかし、何とか困らせてやろうと、毎日手ぐすねを引いていたものだ。変な質問を連発して、先生が教壇で真っ赤になって立往生したら、我々の勝利であった。一度だけ、福田先生が突然教壇で泣きはじめたことがあり、これには悪ガキのほうも真っ青になった。いま考えると、これは私たちの屈折した愛情表現であったわけだが、授業を離れるとろくに口も聞けずに、遠くから(「白脛」を)盗み見ている始末で、からきし意気地がなかった。野稲先生は若くして亡くなられ、福田先生の消息は誰も知らない。先生と私たちとの年齢が十歳とは離れていなかったことに、いま気がついた。(清水哲男)


April 1441999

 目刺やく恋のねた刃を胸に研ぎ

                           稲垣きくの

そらく、焼かれている目刺(めざし)はぼうぼうと燃えているのだろう。が、なぜ作者が目刺を燃やすほどに焼いているのかは、知るよしもない。知るよしはないが、句の勢いだけはわかるような気がする。嫉妬することを俗に「やく」というけれど、この場合の目刺には気の毒ながら(というよりも、誰が食べるのだろう。食べさせられる人には大いに気の毒ながら)、作者は「こんちくしょう」とばかりに、目刺にアタッている。この「恋のねた刃」は、相当に曰くありげだ。誰にでも嫉妬心はあり、誰にもなかなか解消法は見つからない。昔から落語などで「嫉妬心(りんき)は、こんがり焼くものだ」と言ってきた。ほどほどに、ということだ。庶民の智恵だ。が、そんなことは承知しているつもりでも、いざとなったら、そうはいかないのがヒトの常だろう。で、かくのごとくに、盛んに大煙を上げることになる。この研がれた「ねた刃」は、いったい誰に向けられるのか。なんだか、他人事ながらハラハラしてくる。でも、逆に言えば、作品的にそう思わせているにすぎない作者のしたたかな芸なのかもしれず、作った後で舌をぺろっと出している顔を想像すると、実にシャクにさわる。いっそ単純に、現代の「滑稽句」ととったほうがよいのかもしれない。(清水哲男)


April 1541999

 蜆汁家計荒るるにまかせをり

                           小林康治

口青邨に「かちやかちやとかなしかりけり蜆汁」がある。「かちやかちや」と一つ一つ肉を出して食べていると、そのうちに哀しくなってくるという心持ちだ。ていねいに食べている自分も哀れなら、食べられている蜆も哀れである。庶民の食卓におなじみの蜆は小粒で地味だけれど、それだけに地味な生活感覚を表現する絶好の小道具として、昔から俳人に愛されてきた。句の場合は「かちやかちや」というよりも「がちゃがちゃ」と乱暴に食べている。自暴自棄に近い食べ方だ。汁だけすすって、後は「知らないよ」に近い。家計のやり繰り算段に悩んできて、必死に支えてはきたものの、ついに破綻してしまった事情が、この食べ方につながっている。家計が荒れれば心も荒れ、食事の仕方も荒れてくる。愉快な気分とはほど遠い句だが、誰にとっても、他人事ではあるまい。失業率が過去最高となった今日、このような思いで蜆汁をすすっている人もたくさんいるはずだ。いや、蜆汁をすすれれば、まだよいほうだろう。国民のほとんどを借金漬けにしてはばからぬ戦後の経済優先主義を、私は憎悪する。いまどきの若者の利己的な姿勢も、結局はここに起因している。(清水哲男)


April 1641999

 都わすれ去就の鍵は妻子らに

                           水口千杖

の頭自然文化園に、注意しないと見のがしてしまいそうな小さな野草園があって、オダマキの花の横に、毎春ミヤコワスレが可憐に咲く。花色は、紫ないしは白。元来は、山地に自生する地味な野菊の仲間(ミヤマヨメナ)であったが、昭和に入ってから栽培されはじめ、花屋にも出まわるようになったという。案外と歴史の浅い花であるが、ネーミングが秀逸だ。したがって「此処にして都忘れとはかなし」(藤岡筑邨)というように、花そのものの印象よりも名前に引きずられた発想の句が多い。掲句も同様だ。が、この場合はもっと切実。おそらく作者は、意にそまない仕事に疲れているのだろう。いっそのこと遠くの地に転職でもしたいと考えているのだが、妻子の動揺を思うと、なかなか踏み切れない。春は転身の季節だから、毎年、この花が咲くころにそのことを思う。しかし、結局は、決心のつかぬままに何年も過ぎてしまった。そしてこの春もまた、庭に「都わすれ」が咲きはじめた。男たちにとっては、すんなりと共感できる哀しい自嘲句だ。なお、歳時記によっては「都忘れ」は秋に分類されている。元種の野菊と解すれば、そうなる。(清水哲男)


April 1741999

 窓掛の春暁を覆ひ得ず

                           波多野爽波

暁は「しゅんぎょう」と発音するのが普通だが、この句では「はるあかつき」と読ませている。1944年、敗戦一年前の作品だ。作者は二十一歳。さて「窓掛(まどかけ)」とは「カーテン」のことと容易にわかるが、戦争中は英語は敵性用語として使用を禁じられていたので、この表現となった。念のために手元の現代の国語辞典で引いてみると、もはや「窓掛」は載っていない。とっくに死語なのである。作者が目覚めると、カーテンの隙間からほの白い朝の光が洩れ入ってきていた。カーテンがとくに小さいからというのではなく、覆い得ないと感じるほどの春の光の到来を喜んでいる図だ。「春眠暁を覚えず」というが、爽波は早起きだったのか、春暁の句が多い。なかには、戦後に作った「春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか」という変な句もある。生活苦からの発想だろうか。そういえば、私が小学生のときの学芸会で、貧乏なロバ引きが歌う「どこか百円、落ちちゃいないか」という劇中歌があって、大いに流行したものだ。当時、村祭に親からもらう小遣いは十円と決まっていた。「百円」は憧れだった。あの頃は国民的に、ビッグな「落とし物」を探す雰囲気が蔓延していたのかもしれない。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


April 1841999

 朝寝しておのれに甘えをりにけり

                           下村梅子

語は「朝寝」。「春眠」と共通する世界であり、したがって春の季語とされてきた。なんでもないような句だけれど、一読、鋭い描写力だと(本当に)膝を打った。「おのれに甘えをりにけり」とは、なんと正確な心持ちの復元であろうか。たしかに、とろとろと半睡状態にある朝寝では、「おのれ」を甘やかしているのではなくて、このように「おのれ」に甘えているというのが正しいと思う。普通の行為では、なかなかそんなことはできない。しばしば自分を甘やかすことはあるにしても、自分を頼りにして甘えるなんてことは、ほとんど不可能に近い。句の「朝寝」は半睡状態だから、自分自身を半分ほどは他者のように認識できるということだろうか。単に、ずるずると寝ているのではない。半分は覚醒している自分に、甘ったれて寝ているのだ。甘美な認識といおうか、誰にも自然に訪れる癒しのメカニズムといおうか……。とにかく、朝寝の正体は、多くこういうことであるだろう。それにしてもこの季節、一度目覚めてから、またとろとろと眠る時間は、どうしてあんなに心地よいのでしょう。やはり、自分に甘えていることから来ているのでしょう……か。『沙漠』(1982)所収。(清水哲男)


April 1941999

 雨上る雲あたたかに蝌蚪の水

                           松村蒼石

蚪(かと)は「おたまじゃくし」のこと。この季節、水の入った田圃(たんぼ)などには、無数のおたまじゃくしが群れている。かがんで眺めていると、時の経つのも忘れてしまうくらいだ。雨上がりのやわらかい陽射しのなかで、作者はそうして、しばし眺め入ったのであろう。水底にはおたまじゃくしの黒い影がちろちろと動き回り、水面には白い雲の姿が映ってゆったりと流れている。いかにも春らしい至福のひとときである。昭和十二年(1937)の作。そういえば、私が子供だった頃には、何かというと道端でしゃがんだ記憶がある。おたまじゃくしやミズスマシやメダカなどの生き物を見る他にも、田圃に撒かれた石灰が泡を吹いている様子だとか、包丁を研いだり鋸(のこぎり)の目立てをやっている人の手付きなどを、しゃがみこんでは飽かず眺めていた。ひるがえって、いまの子供たちはしゃがまない。第一、しゃがんでまで見るようなものがない。コンビニの前などでしゃがんでいるのは高校生や大学生だが、彼らは別に何かを見ているというのではないだろう。『寒鴬抄』(1950)所収。(清水哲男)


April 2041999

 ノートするは支那興亡史はるの雷

                           鈴木しづ子

雷(しゅんらい)。夏の雷と違って激しくはなく、一つか二つで鳴り止むことが多い。自然が少しでも轟くと、人間はちょっぴり疼くという独特の情感。「支那」とあるから、もちろん戦後の句ではない。「支那」と言い張ってきた現代の人である石原慎太郎は、都知事に当選した後で「もう言わない」と言ったようだが、私が子供だったころには「支那」という大人がほとんどだった。「支那」の呼称が正式に「中華民国」に変更されたのは、1930年10月29日のことだ。にもかかわらず、日本人はしつこく「支那」と言いつづけた。侮蔑の表現として、だ。恥ずかしい。句の「支那」は書物のタイトルだからどうしようもないけれど、中国の権力の興亡の歴史を夢中になって書きとめている作者の耳に、ふと遠くで鳴る雷の音が聞こえてきた。ノートしていたところが、ちょうど風雲急を告げるような場面だったのだろう。遠い歴史のストーリーに現在ただいまの自然の急変が混ざり合って、胸を突かれる思いになったというところか。コピー機の普及したいまでは、こうした情感も失われてしまった。ところで、作者は「幻の俳人」と言われて久しい。戦後間もなく矢継ぎ早に二冊の句集を出して俳壇の注目を集めたが、その後はぷっつりと沈黙してしまい、このほど立風書房から出た『女流俳句集成』にも「生死不明」とある。1919年(大正8年)生まれだから、ご存命である確率は高いのだが。『春雷』(1946)所収。(清水哲男)


April 2141999

 古池や蛙とび込む水の音

                           松尾芭蕉

句に関心のない人でも、この句だけは知っている。「わび」だの「さび」だのを茶化す人は、必ずこの句を持ち出す。とにかく、チョー有名な句だ。どこが、いいのか。小学生のときに教室で習った。が、そのときの先生の解説は忘れてしまった。覚えておけばよかった。どこが、いいのか。古来、多くの人たちがいろいろなことを言ってきた。そのなかで「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭にあってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である」と言ったのは、高浜虚子だ(『俳句はかく解しかく味う』所載)。私も、一応は賛成だ。つづけて虚子は、この句がきっかけとなって「実情実景」をそのままに描く芭蕉流の俳句につながっていく歴史的な価値はあると述べている。この点についても、一応異議はない。が、私は長い間、この句の「実情実景」性を疑ってきた。芭蕉の空想的絵空事ではないのかと思ってきた。というのも、私(田舎の小学生時代)が観察したかぎりにおいて、蛙は、このように水に飛び込む性質を持っていないと言うしかないからだ。たしかに蛙は地面では跳ねるけれど、水に入るときには水泳選手のようには飛び込まない。するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。そこでお願い。水に飛び込む蛙を目撃した方がおられましたら、ぜひともメールをいただきたく……。(清水哲男)


April 2241999

 逃げ水のごと燦々と胃が痛む

                           佐藤鬼房

々と胃が痛むとは、珍しい表現だ。しかも「逃げ水」のようにというのだから、時々キリキリッとあざやかに痛んでは、またすうっと嘘のように痛みがおさまるという症状だろうか。私は幸いにして、ほとんど腹痛とは無縁できたので、句の種類の痛みには連想が及ばない。慢性的な鈍痛でないことだけは、わかるのだが……。「逃げ水」は、科学的には蜃気楼現象の一種と考えられているそうだ。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、そこには水の気配もない。そこから遠くを見ると、また前方には「水」がある。あたかも水が逃げてしまったように感じられることから「逃げ水」と言う。古来「武蔵野の逃水」は有名で、古歌にも登場する。昔の武蔵野はどこまで言っても草の原という趣きだったので、風にそよぐ草また草を遠くから見ると、しばしば水が流れているように見えたのだろう。現在の季題としては武蔵野に限定されてはおらず、掲句のように、一般的にそうした現象を詠むようになった。(清水哲男)


April 2341999

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

の実家に土蔵があったので、幼いころから内部の雰囲気は知っている。言ってみれば大きな物置でしかないのだが、構造はむしろ金庫に似ている。巨大な閂状の錠前を開けると、もうひとつ左右に引き開ける木製の内扉があって、入っていくと古い物独特の匂いが鼻をついた。蔵の窓は小さいので、内部は薄暗く、不気味だった。子供心に、蔵に入ることはおっかなびっくりの「探検」のように思えたものだ。江戸川乱歩は、この独特の雰囲気を利用して、蔵の中で怖い小説を書いたそうだが、たしかに蔵には心理的な怖さを強いる何かがある。そしてこの句には、そうした蔵の怖さと不気味さを描いて説得力がある。春の陽射しのなかにある土蔵は、民話的な明るさを持っている。微笑したいような光景だけれど、その内部で起きている「劇」を想像せずにはいられない作者なのだ。「からすのはんこ」を押しているのは、誰なのか。「からすのはんこ」とは何か。そのことが一切語られていないところに、怖さの源泉があるのだろう。とくに「はんこ」を押す主格の不在が、読者に怖さをもたらす。実景は「春の蔵」だけであり、後は想像の産物だ。虚子の言った「実情実景」がここまで延ばされるとき、俳句は見事に新しくなる。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


April 2441999

 子雀のへの字の口や飛去れり

                           川崎展宏

だ嘴(くちばし)の黄色い雀の子が、庭先にやってきた。可愛らしいなと、よくよく顔を見てみると、口をへの字に結んでいる。もちろんそんなふうに見えただけなのだが、チビ助のくせに早くも大人のような不機嫌な顔の様子に、作者はちょっと意表を突かれた感じだ。と、もう一度よく見ようと目をこらす間もなく、怒った顔つきのまま、ぷいと子雀は飛び去ってしまった。それだけの観察だが、読者に、この束の間の観察がかえって強い印象を与えることになる。子雀にかぎらず生物の子はみな可愛いけれど、チビ助の不機嫌を可愛らしさとつなげた句は珍しいと思う。しかし、考えてみれば、こうした感覚はごく日常的なものだ。人間のチビ助だって、口をとんがらせていると、余計に可愛くなるというような感情はしばしば湧く。だから、この句は誰にでもわかる。このように、俳句では、その短さ故に「平凡」と「非凡」は紙一重のところがある。その意味で、この句は実作上の大切なヒントを含んでいる。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


April 2541999

 鉄道員雨の杉菜を照らしゆく

                           福田甲子雄

の夜のレール点検作業だ。懐中電灯でか、カンテラでか。どこを照らしても、その光の輪のなかに杉菜が見られる季節になった。黒い合羽の鉄道員と、雨に輝く杉菜の明るい緑との対比が印象的だ。田舎の単線での光景だろうか。杉菜は強いヤツで、どこにでもはびこる。『鉄道員』というイタリア映画があった。主人公の貧しい生活と鉄道員であることの誇りとが、リアリズム風に描かれていた。が、そんな当人たちの実体とはかけはなれたところで、この呼称そのものに独特な響きを感じる時代があった。たとえ単線であろうとも、一国の大動脈に関わる職業というわけで、社会も敬意をはらった時代が確実に存在した。六十年以上も前に、熊本工業を卒業するにあたって、川上哲治が職業野球に行くか、それとも「鉄道に出るか」と悩んだ話は有名だ。世間的なステータスは、もちろん「鉄道」のほうが断然高かった。天下の国鉄労働者は、憧れの職業だったのだ。今は、どうなのだろう。鉄道員は健在だし、レール点検のような基礎的な作業は、句のように行われている。そのご苦労に、しかし、敬意をはらう感覚は薄れてしまったのではあるまいか。そういえば、いつの頃からか、子供たちの「電車ごっこ」も姿を消したままだ。(清水哲男)


April 2641999

 ある朝の焼海苔にあるうらおもて

                           小沢信男

苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


April 2741999

 ひらひらと春鮒釣れて慰まず

                           大井戸辿

ぜ「慰まず」なのか。一つには作者の精神的な理由によるものだろうが、そのことは句からはうかがい知れぬ事柄だ。もう一つには、春の鮒は釣りやすいということがあるのだろう。鮒は春の産卵期に、深いところから浅いところへと移動する。どうかすると、田圃にも入り込むことがある。これを乗込鮒(のっこみぶな)と言い、小さな子供にでも簡単に釣れる。そんな鮒を、大人が「ひらひらと」釣ってみても、たいした面白みはないということだ。魚釣は、あまり釣れ過ぎても興醒めなものである。思い出すが、子供の頃には夢中で春の鮒を釣った。シマミミズを餌にして、日暮れまで飽きもせずに釣りまくった。釣った鮒たちをバケツに入れて帰ると、母がハラワタを取り出してくれ、それから一匹ずつを焼くのである。台所もない間借り生活だったので、表に七輪を持ち出して焼いた。アミに乗せると、新鮮な鮒だから、乗せた途端に熱に反応して飛び上がる。飛び上がって地面に落ち、砂まみれになる鮒もいて、これには往生させられた。こんな春の鮒を食べて、私は育った。句とはまた違う意味で、私も「慰まず」と言いたい気持ちである。(清水哲男)


April 2841999

 睡るとはやさしきしぐさ萩若葉

                           後藤夜半

んという「やさしい」句境だろう。このトゲトゲしい世相のなかに置いてみるとき、この句そのものが、さながら「萩若葉」のようである。「萩若葉」から人の寝姿を連想したところも非凡だが、作者の眼目はむしろ「睡る」姿を「しぐさ(仕草)」と捉えた点にありそうだ。「睡る」姿(動作)も、言われてみればたしかに仕草のうちではあるけれど、普通に言うところの「しぐさ」は、もう少し何らかのモーションを伴っている。「じっとしている動作」に、あまり「しぐさ」という言葉は使わないはずだ。そこにあえて「しぐさ」と言葉を当ててみたわけで、流線の枝にさみどり色の若葉を散らして微風に揺れる萩の姿形に、ぴたりと合致したのだった。「仕草」ではなく「しぐさ」としたのは、むろん「萩若葉」のやわらかさに照応させるためである。まさに名人・夜半の、静かなる得意の顔が浮かんでくるような句ではないか。作者の意識のなかにある「睡る」人は、もちろん女人だろう。古来、萩は若葉の頃から、男には悩ましい植物として詠まれてきた。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


April 2941999

 青麦に沿うて歩けばなつかしき

                           星野立子

や茎が青々としている麦畑は、見るほどに清々しいものだ。そんな麦畑に沿って、作者は機嫌よく歩いている。「なつかしき」とあるが、何か特定の事柄を思い出して懐しんでいるのではない。昔は、麦畑などどこにでもあったから、青麦は春を告げる極く平凡な植物というわけで、よほどのことでもないかぎり、記憶と深く結びつくこともなかったろう。したがって、ただ、なんとなく「なつかしき」なのだと解釈したほうが、句の情感が深まる。そして今や、この句全体が、それこそなんとなく懐しく思えるような時代になってしまった。東京のようなところで、毎日のように俳句を読みつづけていると、いかに季節感とは無縁の暮らしをしているかが、よくわかる。かつての田舎の子としては、胸が詰まるような寂しさを感じる。「みどりの日」などと言うけれど、いまさら何を言うかと、とても祝う気にはなれないのである。昭和天皇の誕生日だったことから、この日を「昭和の日」にしようという右翼的な人たちの運動があるらしい。その人たちとはまた別の意味から、私も「昭和の日」に賛成だ。昭和という時代を、それぞれがそれぞれに思い出し考える日としたほうが、なにやらわけのわからん「みどりの日」よりも、よほど意義があろうかと愚考している。(清水哲男)


April 3041999

 黒服の春暑き列上野出づ

                           飯田龍太

学旅行の「黒服」である。東京の中高生はあまり東北地方に修学旅行には出かけないので、上野駅から汽車に乗った団体は、帰途につくところだろう。それでなくとも暑い春の日なのに、黒服の団体と遭遇したあっては、むうっとするような蒸し暑い光景だ。しかも、生徒たちは疲れている。その様子が、ますます蒸し暑さを助長する。そんな彼らの乗り込んだ列車が、たったいま発車していった。「やれやれ」という、春の午後である。いまは知らないが、昔はデパートなどの隠語で、修学旅行生のことを「カラス」と言っていたそうだ。もちろん「黒服」からの連想である。私もまた「カラス」の一羽となって、中学時代は日光へ、高校のときは奈良京都へと出かけていった。まだ船木一夫の『修学旅行』が歌われていなかった頃だけれど、後で聞いたときには、歌そっくりの気分で参加していた自分を確認する思いがしたものだ。で、いつだったか、新聞に「この歌は嫌い」という投書が載っていたのを覚えている。中学を出てすぐに働いた人からのもので、「この歌を聞くたびに口惜しくて泣いていました。だから、嫌い」とあった。行きたくても高校に行けない若者のいた時代があったことを、忘れてはいけない。(清水哲男)




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