夕刻の吉祥寺駅南口は大混雑。井の頭公園の夜桜見物のためだ。今日現在、八分咲き。




1999N42句(前日までの二句を含む)

April 0241999

 花の昼動く歩道を大股に

                           佐々木峻

者は「動く歩道」を大股で突き進んでいるのだから、とにかく忙しいのだ。空港だろうか。たぶん、遠くても窓外に花は見えているのだろうけれど、実際「花」どころではないのである。何が何でも、先を急がなくてはならない。今日あたりも、こんな気持ちで「動く歩道」を大股ですっ飛ぶように歩いているサラリーマンは、全国のあちこちにいるだろう。切なくも、逞しい感覚と言うべきか。ただし、作者には別に「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句があり、「桜花」には執着がなさそうなので読者としては少し気が楽だ。けれども、この忙しさの渦中にある感覚だけはよくわかる。サラリーマン編集者の頃、ファクシミリなどなかったから、とにかく短文一本カット一枚も手渡しだったので、締切日前後は多忙を極めた。なかには関西在住の小松左京さんの原稿のように、貨物便で羽田空港に送られてくるものもあった。社への配達を待っていたのでは間に合わないので、毎月、空港まで取りに行った。印刷所も夜通し仕事をしており、「今日はもう遅いから」という逃げ口上は通用しなかった時代だ。……等々、この句を読んで思い出したことがたくさんあった。『まどひ』(1998)所収。(清水哲男)


April 0141999

 四月馬鹿病めど喰はねど痩せられず

                           加藤知世子

月馬鹿の句には、自嘲句が多い。自分で自分を馬鹿にしている分には、差し障りがないからである。この句も、典型的なそれだ。「病まねど喰えど太れない」私としては、逆に少々身につまされる句ではあるけれども、見つけた瞬間には大いに笑わせてもらった。作者の人柄がよくないと、なかなかこうは詠めないだろう。楽しい句だ。このように自分で自分を笑い飛ばせる資質は、俳人にかぎらず表現者一般にとって、とても大切なものだと思う。それだけ深く、自分を客観視できるからだ。その意味で、この国の文芸や芸術作品には、とかく二枚目のまなざしで表現されたものが多くて辟易させられることがある。ときに自己陶酔的な表現も悪くはないが、度が過ぎると嫌味になってしまう。同様に、美男美女につまらない人物が多いのは、他人の好意的な視線だけを栄養にして育ってきているからで、自己否定ホルモンの分泌が足らないせいだろう。他人は馬鹿にできても、ついに自分を馬鹿にすることができない……。せっかく生まれてきたというのに、まことに惜しいことではないか。バイアグラも結構なれど、こうした「馬鹿」につける薬も発明してほしい。(清水哲男)


March 3131999

 鞦韆の月に散じぬ同窓会

                           芝不器男

韆は一般的に「しゅうせん」と読むが、作者は「ふらここ」と仮名を振っている。「ぶらんこ」のことであり、春の季語だ。同窓会の別れ際には、甘酸っぱい感傷が伴う。はじめのうちはともかく、会が果てるころには、みんながすっかり昔の顔に戻ってしまう。しかし、去りがたい思いとともに外に出ると、昔の顔がすでに幻であることに、否応なく気づかされる。感傷の根は、ここにある。句の場合は、小学校の同窓会だろう。やわらかい月明の下に、みんなで遊んだぶらんこが、それこそ幻のように目に写った。ふざけて、ちょっと乗ってみたりした級友もいただろう。それも、束の間。やがてみんなは、それぞれの道へと別れて帰っていく。ぶらんこ一つを、ぽつんとそこに残して……。また、いつの日にか、こうしてお互いに元気で会えるだろうか。作者の芝不器男は、昭和五年(1930)に二十七歳にも満たない若さで亡くなった。その短い生涯を思うとき、余計に句の純粋な感傷が読者の胸にと迫ってくる。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)




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