鈴木志郎康、高野民雄、関信博の早稲田仏文同級生組と飲む機会。夜桜に雨の昨夜。




1999N43句(前日までの二句を含む)

April 0341999

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)


April 0241999

 花の昼動く歩道を大股に

                           佐々木峻

者は「動く歩道」を大股で突き進んでいるのだから、とにかく忙しいのだ。空港だろうか。たぶん、遠くても窓外に花は見えているのだろうけれど、実際「花」どころではないのである。何が何でも、先を急がなくてはならない。今日あたりも、こんな気持ちで「動く歩道」を大股ですっ飛ぶように歩いているサラリーマンは、全国のあちこちにいるだろう。切なくも、逞しい感覚と言うべきか。ただし、作者には別に「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句があり、「桜花」には執着がなさそうなので読者としては少し気が楽だ。けれども、この忙しさの渦中にある感覚だけはよくわかる。サラリーマン編集者の頃、ファクシミリなどなかったから、とにかく短文一本カット一枚も手渡しだったので、締切日前後は多忙を極めた。なかには関西在住の小松左京さんの原稿のように、貨物便で羽田空港に送られてくるものもあった。社への配達を待っていたのでは間に合わないので、毎月、空港まで取りに行った。印刷所も夜通し仕事をしており、「今日はもう遅いから」という逃げ口上は通用しなかった時代だ。……等々、この句を読んで思い出したことがたくさんあった。『まどひ』(1998)所収。(清水哲男)


April 0141999

 四月馬鹿病めど喰はねど痩せられず

                           加藤知世子

月馬鹿の句には、自嘲句が多い。自分で自分を馬鹿にしている分には、差し障りがないからである。この句も、典型的なそれだ。「病まねど喰えど太れない」私としては、逆に少々身につまされる句ではあるけれども、見つけた瞬間には大いに笑わせてもらった。作者の人柄がよくないと、なかなかこうは詠めないだろう。楽しい句だ。このように自分で自分を笑い飛ばせる資質は、俳人にかぎらず表現者一般にとって、とても大切なものだと思う。それだけ深く、自分を客観視できるからだ。その意味で、この国の文芸や芸術作品には、とかく二枚目のまなざしで表現されたものが多くて辟易させられることがある。ときに自己陶酔的な表現も悪くはないが、度が過ぎると嫌味になってしまう。同様に、美男美女につまらない人物が多いのは、他人の好意的な視線だけを栄養にして育ってきているからで、自己否定ホルモンの分泌が足らないせいだろう。他人は馬鹿にできても、ついに自分を馬鹿にすることができない……。せっかく生まれてきたというのに、まことに惜しいことではないか。バイアグラも結構なれど、こうした「馬鹿」につける薬も発明してほしい。(清水哲男)




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