「人道的空爆」による難民続出。問題を「民族浄化」思想に矮小化する米国の身勝手。




1999ソスN4ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0741999

 春泥にテレホンカード落しけり

                           神谷博子

藤園「おーいお茶」新俳句大賞作(一般の部B・40歳以上65歳未満・応募総数六八九八九句・1998)。茶と俳句というと古風なイメージに写りやすいが、この俳句コンクールは「思ったことを季語や定型にこだわることなく、五七五のリズムにのせて詠めばよい」という至極自由な条件から、若者にも人気を博している。そういうわけで、この句も技巧的な上手下手とは関係のないところでの入賞だ。なによりも、素材の現代性が評価されたのだろう。入選作を集めた冊子「自由語り」に、作者の弁が掲載されている。「買い物の途中、ちょっと家に電話しようと思った時、テレホンカードを、足元の泥水の中に落してしまいました。アスファルトばかりの現代で、ぬかるみこそ見かけなくなりましたが、汚れたカードを拾おうとしながら、ふと『これも春泥(しゅんでい)かな』と思いました」。面白い着眼だと思う。要するに、雨上がりか何かで汚れた鋪道のちょっとした泥水に「春泥」を感じたというわけだ。うーむ、なるほど……。でも、残念なことに、作者のこの微妙な感覚を句は一切伝えていない。選者たちも、本物の「ぬかるみ」と受け取っている。私としては、作者の弁そのものが作品化されていたら、どんなに素敵だったろうかと思い、あらためて句作りの難しさを考えさせられた。(清水哲男)


April 0641999

 あたらしい帽子が太くて枝張る桜

                           穴井 太

カピカの一年生に出会っての所見と思われる。最近は違うかもしれないが、昔の男の子はみんな入学時に「あたらしい帽子」をかぶった。私も、桜の記章のついた学帽をかぶった。少し大きめの帽子だった。子供の成長は早いので、親はそれを見越して大きめの帽子を買うのである。世間の所見はそれを単に愛らしい姿としてとらえるのが常だけれど、作者は違っている。その大きな学帽を、たくましい「太くて枝張る桜」になぞらえている。実際、大きめの帽子をかぶると、何か巨大なものを頭に乗せたような気持ちになる。ついでに、ちょっぴり偉くなったような気もしたものだ。そこらあたりの心理を、作者はずばりと突いている。と同時に、帽子の主の将来を期待する優しい感情も込めている。このとき「枝張る桜」とは、ソメイヨシノではないだろう。ソメイヨシノにはひょろひょろした樹が多く、平均的な樹齢も四十年ほどと短い(とは、友人の話)。花の美しさだけを求めて交配させた結果、たくましさが失われたのだ。私に品種名はわからないが、もっと幹の色が黒い桜で、いかにも野趣溢れる樹木を見かける。句の桜はそれだろう。そんな「桜樹のようにあれよ」と、作者は一年生を激励しているようだ。『鶏と鳩と夕焼と』(1963)所収。(清水哲男)


April 0541999

 娘泣きゆく花の人出とすれ違ひ

                           星野立子

の名所に向かって、ぞろぞろと歩いていく人々。作者も、そのなかの一人だ。そんな浮かれ気分の道を逆方向に歩いてくる人も、もちろんいる。ほとんどは、地元の人だろう。いちいち擦れ違う人を意識するわけでもないけれど、作者の目はふと、向こうから足早にやって来る若い女性の姿にとらえられてしまった。「泣きゆく」というのだから、嗚咽をこらえかねている様子を、娘は全身から発していた。思わず、顔を盗み見てしまう。一瞬の「すれ違ひ」に、人生の哀楽を対比させて詠みこんだ巧みな句だ。桜の句には、花そのもののありようよりも、こうした人事を詠んだ句のほうが多いかもしれない。純粋に「花を見て人を見ず」というわけには、なかなかいかないということだ。いや、花見は「人見」や「人込み」とごちゃまぜになっているからこそ、独特な雰囲気になるのだろう。こんな句もある。「うしろ手を組んで桜を見る女」(京極杞陽)。さきほどの娘とは違って、この女性の様子はたくましいかぎりだ。今風に言うと「キャリア・ウーマン」か。作者は、この発見ににんまりしている。たった十七文字で、見知らぬ女の全貌をとらえ切った気持ちになっている。『實生』(1957)所収。(清水哲男)




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