April 151999
蜆汁家計荒るるにまかせをり
小林康治
山口青邨に「かちやかちやとかなしかりけり蜆汁」がある。「かちやかちや」と一つ一つ肉を出して食べていると、そのうちに哀しくなってくるという心持ちだ。ていねいに食べている自分も哀れなら、食べられている蜆も哀れである。庶民の食卓におなじみの蜆は小粒で地味だけれど、それだけに地味な生活感覚を表現する絶好の小道具として、昔から俳人に愛されてきた。句の場合は「かちやかちや」というよりも「がちゃがちゃ」と乱暴に食べている。自暴自棄に近い食べ方だ。汁だけすすって、後は「知らないよ」に近い。家計のやり繰り算段に悩んできて、必死に支えてはきたものの、ついに破綻してしまった事情が、この食べ方につながっている。家計が荒れれば心も荒れ、食事の仕方も荒れてくる。愉快な気分とはほど遠い句だが、誰にとっても、他人事ではあるまい。失業率が過去最高となった今日、このような思いで蜆汁をすすっている人もたくさんいるはずだ。いや、蜆汁をすすれれば、まだよいほうだろう。国民のほとんどを借金漬けにしてはばからぬ戦後の経済優先主義を、私は憎悪する。いまどきの若者の利己的な姿勢も、結局はここに起因している。(清水哲男)
January 152000
春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え
摂津幸彦
作者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)
April 022008
なにほどの男かおのれ蜆汁
富士眞奈美
蜆も蜆汁も春の季語である。冬の寒蜆も夏の土用蜆もあるわけだけれど、春がもっともおいしいとされる。もちろん、ここでは蜆そのものがどうのこうのというわけではない。こういう句に出会うと、大方の女性は溜飲をさげるのかもしれない。いや、男の私が読んでも決して嫌味のない句であり、きっぱりとした気持ちよささえ感じる。下五の「蜆汁」でしっかり受けとめて、上五・中七がストンとおさまり、作者のやりきれない憤懣にユーモラスな響きさえ生まれている。蜆の黒い一粒一粒の小粒できちんとしたかたち、蜆汁のあのおいしさとさりげない庶民性が、沸騰している感情をけなげに受けとめている。ここは気どったお吸い物などはふさわしくない。「なにほど」ではない蜆汁だから生きてくる。同じ春でも、ここはたとえば「若布汁」では締まらないだろう。それどころか、気持ちはさらにわらわらと千々に乱れてしまうことになるかもしれない。眞奈美は女優だが、五つの句会をこなしているほどのベテランである。掲出句は、ある人に悪く言われたことがあって、そのときはびっくりしたが、バカバカしいと考え直して作った句だという。「胸のつかえがすーっとおりて・・・・立ち直れた」と語っている。さもありなん。こんな場合、散文や詩でグダグダ書くよりは、五七五でスイと詠んでしまったほうがふっきれるだろう。そこに俳句のちからがある。吉行和子との共著『東京俳句散歩』もある。ほかに「宵闇の小伝馬町を透かしみる」「流れ星恋は瞬時の愚なりけり」などがある。いずれもオトナの句。「翡翠」14号(2008)所載。(八木忠栄)
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