松坂初黒星。それはそれとして近鉄のいいかげんな野球に腹が立った。漫然馬鹿野球。




1999ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1541999

 蜆汁家計荒るるにまかせをり

                           小林康治

口青邨に「かちやかちやとかなしかりけり蜆汁」がある。「かちやかちや」と一つ一つ肉を出して食べていると、そのうちに哀しくなってくるという心持ちだ。ていねいに食べている自分も哀れなら、食べられている蜆も哀れである。庶民の食卓におなじみの蜆は小粒で地味だけれど、それだけに地味な生活感覚を表現する絶好の小道具として、昔から俳人に愛されてきた。句の場合は「かちやかちや」というよりも「がちゃがちゃ」と乱暴に食べている。自暴自棄に近い食べ方だ。汁だけすすって、後は「知らないよ」に近い。家計のやり繰り算段に悩んできて、必死に支えてはきたものの、ついに破綻してしまった事情が、この食べ方につながっている。家計が荒れれば心も荒れ、食事の仕方も荒れてくる。愉快な気分とはほど遠い句だが、誰にとっても、他人事ではあるまい。失業率が過去最高となった今日、このような思いで蜆汁をすすっている人もたくさんいるはずだ。いや、蜆汁をすすれれば、まだよいほうだろう。国民のほとんどを借金漬けにしてはばからぬ戦後の経済優先主義を、私は憎悪する。いまどきの若者の利己的な姿勢も、結局はここに起因している。(清水哲男)


April 1441999

 目刺やく恋のねた刃を胸に研ぎ

                           稲垣きくの

そらく、焼かれている目刺(めざし)はぼうぼうと燃えているのだろう。が、なぜ作者が目刺を燃やすほどに焼いているのかは、知るよしもない。知るよしはないが、句の勢いだけはわかるような気がする。嫉妬することを俗に「やく」というけれど、この場合の目刺には気の毒ながら(というよりも、誰が食べるのだろう。食べさせられる人には大いに気の毒ながら)、作者は「こんちくしょう」とばかりに、目刺にアタッている。この「恋のねた刃」は、相当に曰くありげだ。誰にでも嫉妬心はあり、誰にもなかなか解消法は見つからない。昔から落語などで「嫉妬心(りんき)は、こんがり焼くものだ」と言ってきた。ほどほどに、ということだ。庶民の智恵だ。が、そんなことは承知しているつもりでも、いざとなったら、そうはいかないのがヒトの常だろう。で、かくのごとくに、盛んに大煙を上げることになる。この研がれた「ねた刃」は、いったい誰に向けられるのか。なんだか、他人事ながらハラハラしてくる。でも、逆に言えば、作品的にそう思わせているにすぎない作者のしたたかな芸なのかもしれず、作った後で舌をぺろっと出している顔を想像すると、実にシャクにさわる。いっそ単純に、現代の「滑稽句」ととったほうがよいのかもしれない。(清水哲男)


April 1341999

 白脛に春風新進女教師よ

                           藤本節子

者は、たぶん教師だろう。新学期になって、赴任してきた大学を出たばかりの女教師の白脛(しらはぎ)が、春風にまぶしく感じられる。若さを素直に羨む心と、ちょっぴり嫉ましい心と……。初日から、この先生は生徒たちの人気者だったろう。私が中学一年のときの野稲先生と三年のときの福田先生は、お二人とも、句のようにまぶしくも初々しい新進女教師だった。国語を担当された。思春期の入り口にあった我等悪童どもは大いに照れながらも、しかし、何とか困らせてやろうと、毎日手ぐすねを引いていたものだ。変な質問を連発して、先生が教壇で真っ赤になって立往生したら、我々の勝利であった。一度だけ、福田先生が突然教壇で泣きはじめたことがあり、これには悪ガキのほうも真っ青になった。いま考えると、これは私たちの屈折した愛情表現であったわけだが、授業を離れるとろくに口も聞けずに、遠くから(「白脛」を)盗み見ている始末で、からきし意気地がなかった。野稲先生は若くして亡くなられ、福田先生の消息は誰も知らない。先生と私たちとの年齢が十歳とは離れていなかったことに、いま気がついた。(清水哲男)




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