「みどりの日」の命名に自民が賛成したのは、単なる平日にしたくなかったがためだ。




1999ソスN4ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2941999

 青麦に沿うて歩けばなつかしき

                           星野立子

や茎が青々としている麦畑は、見るほどに清々しいものだ。そんな麦畑に沿って、作者は機嫌よく歩いている。「なつかしき」とあるが、何か特定の事柄を思い出して懐しんでいるのではない。昔は、麦畑などどこにでもあったから、青麦は春を告げる極く平凡な植物というわけで、よほどのことでもないかぎり、記憶と深く結びつくこともなかったろう。したがって、ただ、なんとなく「なつかしき」なのだと解釈したほうが、句の情感が深まる。そして今や、この句全体が、それこそなんとなく懐しく思えるような時代になってしまった。東京のようなところで、毎日のように俳句を読みつづけていると、いかに季節感とは無縁の暮らしをしているかが、よくわかる。かつての田舎の子としては、胸が詰まるような寂しさを感じる。「みどりの日」などと言うけれど、いまさら何を言うかと、とても祝う気にはなれないのである。昭和天皇の誕生日だったことから、この日を「昭和の日」にしようという右翼的な人たちの運動があるらしい。その人たちとはまた別の意味から、私も「昭和の日」に賛成だ。昭和という時代を、それぞれがそれぞれに思い出し考える日としたほうが、なにやらわけのわからん「みどりの日」よりも、よほど意義があろうかと愚考している。(清水哲男)


April 2841999

 睡るとはやさしきしぐさ萩若葉

                           後藤夜半

んという「やさしい」句境だろう。このトゲトゲしい世相のなかに置いてみるとき、この句そのものが、さながら「萩若葉」のようである。「萩若葉」から人の寝姿を連想したところも非凡だが、作者の眼目はむしろ「睡る」姿を「しぐさ(仕草)」と捉えた点にありそうだ。「睡る」姿(動作)も、言われてみればたしかに仕草のうちではあるけれど、普通に言うところの「しぐさ」は、もう少し何らかのモーションを伴っている。「じっとしている動作」に、あまり「しぐさ」という言葉は使わないはずだ。そこにあえて「しぐさ」と言葉を当ててみたわけで、流線の枝にさみどり色の若葉を散らして微風に揺れる萩の姿形に、ぴたりと合致したのだった。「仕草」ではなく「しぐさ」としたのは、むろん「萩若葉」のやわらかさに照応させるためである。まさに名人・夜半の、静かなる得意の顔が浮かんでくるような句ではないか。作者の意識のなかにある「睡る」人は、もちろん女人だろう。古来、萩は若葉の頃から、男には悩ましい植物として詠まれてきた。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


April 2741999

 ひらひらと春鮒釣れて慰まず

                           大井戸辿

ぜ「慰まず」なのか。一つには作者の精神的な理由によるものだろうが、そのことは句からはうかがい知れぬ事柄だ。もう一つには、春の鮒は釣りやすいということがあるのだろう。鮒は春の産卵期に、深いところから浅いところへと移動する。どうかすると、田圃にも入り込むことがある。これを乗込鮒(のっこみぶな)と言い、小さな子供にでも簡単に釣れる。そんな鮒を、大人が「ひらひらと」釣ってみても、たいした面白みはないということだ。魚釣は、あまり釣れ過ぎても興醒めなものである。思い出すが、子供の頃には夢中で春の鮒を釣った。シマミミズを餌にして、日暮れまで飽きもせずに釣りまくった。釣った鮒たちをバケツに入れて帰ると、母がハラワタを取り出してくれ、それから一匹ずつを焼くのである。台所もない間借り生活だったので、表に七輪を持ち出して焼いた。アミに乗せると、新鮮な鮒だから、乗せた途端に熱に反応して飛び上がる。飛び上がって地面に落ち、砂まみれになる鮒もいて、これには往生させられた。こんな春の鮒を食べて、私は育った。句とはまた違う意味で、私も「慰まず」と言いたい気持ちである。(清水哲男)




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