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1999ソスN4ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 3041999

 黒服の春暑き列上野出づ

                           飯田龍太

学旅行の「黒服」である。東京の中高生はあまり東北地方に修学旅行には出かけないので、上野駅から汽車に乗った団体は、帰途につくところだろう。それでなくとも暑い春の日なのに、黒服の団体と遭遇したあっては、むうっとするような蒸し暑い光景だ。しかも、生徒たちは疲れている。その様子が、ますます蒸し暑さを助長する。そんな彼らの乗り込んだ列車が、たったいま発車していった。「やれやれ」という、春の午後である。いまは知らないが、昔はデパートなどの隠語で、修学旅行生のことを「カラス」と言っていたそうだ。もちろん「黒服」からの連想である。私もまた「カラス」の一羽となって、中学時代は日光へ、高校のときは奈良京都へと出かけていった。まだ船木一夫の『修学旅行』が歌われていなかった頃だけれど、後で聞いたときには、歌そっくりの気分で参加していた自分を確認する思いがしたものだ。で、いつだったか、新聞に「この歌は嫌い」という投書が載っていたのを覚えている。中学を出てすぐに働いた人からのもので、「この歌を聞くたびに口惜しくて泣いていました。だから、嫌い」とあった。行きたくても高校に行けない若者のいた時代があったことを、忘れてはいけない。(清水哲男)


April 2941999

 青麦に沿うて歩けばなつかしき

                           星野立子

や茎が青々としている麦畑は、見るほどに清々しいものだ。そんな麦畑に沿って、作者は機嫌よく歩いている。「なつかしき」とあるが、何か特定の事柄を思い出して懐しんでいるのではない。昔は、麦畑などどこにでもあったから、青麦は春を告げる極く平凡な植物というわけで、よほどのことでもないかぎり、記憶と深く結びつくこともなかったろう。したがって、ただ、なんとなく「なつかしき」なのだと解釈したほうが、句の情感が深まる。そして今や、この句全体が、それこそなんとなく懐しく思えるような時代になってしまった。東京のようなところで、毎日のように俳句を読みつづけていると、いかに季節感とは無縁の暮らしをしているかが、よくわかる。かつての田舎の子としては、胸が詰まるような寂しさを感じる。「みどりの日」などと言うけれど、いまさら何を言うかと、とても祝う気にはなれないのである。昭和天皇の誕生日だったことから、この日を「昭和の日」にしようという右翼的な人たちの運動があるらしい。その人たちとはまた別の意味から、私も「昭和の日」に賛成だ。昭和という時代を、それぞれがそれぞれに思い出し考える日としたほうが、なにやらわけのわからん「みどりの日」よりも、よほど意義があろうかと愚考している。(清水哲男)


April 2841999

 睡るとはやさしきしぐさ萩若葉

                           後藤夜半

んという「やさしい」句境だろう。このトゲトゲしい世相のなかに置いてみるとき、この句そのものが、さながら「萩若葉」のようである。「萩若葉」から人の寝姿を連想したところも非凡だが、作者の眼目はむしろ「睡る」姿を「しぐさ(仕草)」と捉えた点にありそうだ。「睡る」姿(動作)も、言われてみればたしかに仕草のうちではあるけれど、普通に言うところの「しぐさ」は、もう少し何らかのモーションを伴っている。「じっとしている動作」に、あまり「しぐさ」という言葉は使わないはずだ。そこにあえて「しぐさ」と言葉を当ててみたわけで、流線の枝にさみどり色の若葉を散らして微風に揺れる萩の姿形に、ぴたりと合致したのだった。「仕草」ではなく「しぐさ」としたのは、むろん「萩若葉」のやわらかさに照応させるためである。まさに名人・夜半の、静かなる得意の顔が浮かんでくるような句ではないか。作者の意識のなかにある「睡る」人は、もちろん女人だろう。古来、萩は若葉の頃から、男には悩ましい植物として詠まれてきた。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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