朝日「折々のうた」再開。楽しみだ。大岡さんは解説に外来語を使わない。私は使う。




1999ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0151999

 落葉松の空の濡れをり聖五月

                           古賀まり子

やかな五月の到来だ。……おっと、イケない。「爽やか」は秋の季語だから、俳句愛好者たるものは「清々しい」とでも言い換えなければなるまい。同様の理由から、甲子園球児のプレーを「爽やか」と言うのは間違いだと、さる「ホトトギス」系の俳人が新聞で怒り狂っていたのを読んだことがある。不自由ですねえ、俳人は(笑)。さて、掲句はまことに清々しくも上品な詠みぶりだ。雨上がりか、あるいは霧がかかっているのか。落葉松林の空を仰ぐと、大気はしっとりと濡れており、そこに一条の朝の光がさしこんでいるという光景だろう。たしかに「聖五月」という言葉にふさわしい「聖性」が感じられる。ところで、この「聖五月」という言い方は、阿波野青畝に「聖母の名負ひて五月は来たりけり」とあるように、元来はカトリックの「聖母月」に発している。「マリア月」とも言う。だから、いまでももちろん「聖母」に崇敬の念をこめた句も詠まれてはいるが、おおかたの俳人は掲句のように、宗教とは無縁の感覚で「聖五月」を使っている。それこそ「清々しさ」から来る日本的な「聖性」を表現している。西洋語を換骨奪胎して、別の輝きを与えた季語の成功例の一つだろう。(清水哲男)


April 3041999

 黒服の春暑き列上野出づ

                           飯田龍太

学旅行の「黒服」である。東京の中高生はあまり東北地方に修学旅行には出かけないので、上野駅から汽車に乗った団体は、帰途につくところだろう。それでなくとも暑い春の日なのに、黒服の団体と遭遇したあっては、むうっとするような蒸し暑い光景だ。しかも、生徒たちは疲れている。その様子が、ますます蒸し暑さを助長する。そんな彼らの乗り込んだ列車が、たったいま発車していった。「やれやれ」という、春の午後である。いまは知らないが、昔はデパートなどの隠語で、修学旅行生のことを「カラス」と言っていたそうだ。もちろん「黒服」からの連想である。私もまた「カラス」の一羽となって、中学時代は日光へ、高校のときは奈良京都へと出かけていった。まだ船木一夫の『修学旅行』が歌われていなかった頃だけれど、後で聞いたときには、歌そっくりの気分で参加していた自分を確認する思いがしたものだ。で、いつだったか、新聞に「この歌は嫌い」という投書が載っていたのを覚えている。中学を出てすぐに働いた人からのもので、「この歌を聞くたびに口惜しくて泣いていました。だから、嫌い」とあった。行きたくても高校に行けない若者のいた時代があったことを、忘れてはいけない。(清水哲男)


April 2941999

 青麦に沿うて歩けばなつかしき

                           星野立子

や茎が青々としている麦畑は、見るほどに清々しいものだ。そんな麦畑に沿って、作者は機嫌よく歩いている。「なつかしき」とあるが、何か特定の事柄を思い出して懐しんでいるのではない。昔は、麦畑などどこにでもあったから、青麦は春を告げる極く平凡な植物というわけで、よほどのことでもないかぎり、記憶と深く結びつくこともなかったろう。したがって、ただ、なんとなく「なつかしき」なのだと解釈したほうが、句の情感が深まる。そして今や、この句全体が、それこそなんとなく懐しく思えるような時代になってしまった。東京のようなところで、毎日のように俳句を読みつづけていると、いかに季節感とは無縁の暮らしをしているかが、よくわかる。かつての田舎の子としては、胸が詰まるような寂しさを感じる。「みどりの日」などと言うけれど、いまさら何を言うかと、とても祝う気にはなれないのである。昭和天皇の誕生日だったことから、この日を「昭和の日」にしようという右翼的な人たちの運動があるらしい。その人たちとはまた別の意味から、私も「昭和の日」に賛成だ。昭和という時代を、それぞれがそれぞれに思い出し考える日としたほうが、なにやらわけのわからん「みどりの日」よりも、よほど意義があろうかと愚考している。(清水哲男)




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